武道 第5回 宇城空手シアトルセミナー2015/05/05 

■ 二つのテーマ 内面と外面・部分体と統一体

2015年4月25日、26日、二日間にわたるシアトル空手セミナーが開催された。今回で5回目となるセミナーには、地元シアトルからはもとより、アメリカ各地からとカナダ、そして日本からの参加者があり、その多くはシアトルセミナーが始まる数年前より開催されていたニューヨークセミナーの定期参加者でもあることから、宇城塾長の指導は、それまでの教えをより深く追求する方向に展開していくものとなった。



サンチンの型




シアトルでのセミナー開催は年2回である。したがって次のセミナーまで、参加者が確実に稽古を重ね進歩していけるよう、塾長は常にセミナーでは型稽古を徹底して行なう。二日間のセミナーで正しい型、不変の型をしっかり学び、それを日々の一人稽古でしっかり身体に落とし込むことは、今ではシアトルセミナーの参加者にとってはたいへん重要な稽古の要となっている。なぜならば、その生きた型が、一人稽古を通して、自身にある身体の使い方の癖や、ひいては思考の癖などに気づかせ、取り除いてくれるようになるからだ。
毎回紹介する感想文も、そうした日々の稽古のなかでの変化をつづるものが多い。

塾長は今回のセミナーで、学ぶべき二つのテーマを掲げた。
一つは、外面ではなく内面の大切さについて。つまり、内面の働きが外面の世界よりもいかに大事であるかということ。
二つ目は、従来の常識とはまったく異なる身体の使い方だ。
それはすなわち、部分体と統一体の違いを知ることとも言える。従来の身体の使い方は、筋力ベースの、スポーツ等で常識とされているあり方で、部分を筋トレなどで強化していくというものだが、そうした部分的な力のあり方とは異なるあり方が全体からくる統一体の力だ。

今回のセミナーでは、そうした目に見えない内面の力に気づく大切さと、気の通った統一体から来る力、この二つを、さまざまな検証を通して参加たちに具体的に体感させていった。


■ 目に見えない力の存在を知る

まずセミナーの冒頭で、目に見えない内面の力をはっきりと目に見える形で示していく検証から始まった。
それは、一本の帯を両側からぴんと張って持ち、その帯に塾長が気を通すと、帯が伸びたり縮んだりする、という検証だ。実際、帯の織目が塾長の気の流れに応じて粗くなったり細かくなったりしていく。帯を持っている人は、帯の伸び縮みによって身体が後ろに下がったり前のめりになったりするので、その変化がより鮮明に感じられているようであった。 





この検証は、言葉で説明すれば「常識ではあり得ない」となるのだが、塾長からすれば、量子論的に当たり前のことであると言う。アインシュタインによれば、物質はエネルギーからなっていて、今現実に見えている物質も、もとは原子、分子という目に見えない組み合わせによってできているのであり、物質というのは、中身のつまった実態(粒子)であると同時に、非物質的な力場(波動)であるとしている。そういう視点からすれば、すべては原子的に見て、目に見えないもので成り立っているということになり、今回の帯の変化にしても、実際に変化している事実があるということは、そこになんらかの働きかけるエネルギーと具体的な技術があるということの証なのである。科学はなんでも理論的に説明できないことは否定する傾向にあるが、塾長の気の実践に見るように、事実が先行している以上、科学的理論はあとからついてくるしかないのである。
 
次に行なった検証は、帯の右端を2人で、左端を3人で持ち、「綱引き」をするというものだ。従来の常識では、3人が引っ張るほうが勝るということになる。実際そのまま引っ張ると、3人のほうがはるかに勝っていた。しかし、塾長が両側の真ん中に立ち、2人のほうに気をかけると、とたんにそれが逆転し、2人のほうが勝って揺るがなくなる。これは、ここで示された力が、従来の人数や筋力といった外面の力に依存するものではないことの証であり、気によって2人の内面が変化し「気が通った身体」からくる力のほうが、はるかに強い状態となることを如実に示すものであった。



左側が3人、右側が2人で綱引きをする


通常は、3人が強い


塾長が2人側に気をかけると・・・・


とたんに逆転し、2人が強くなる


■ とらわれない心の力

この「目に見えない内面の力」というのは、心の状態によって発揮される。
参加者は、次の検証で、自らの身体を通じて、自分の心のあり方いかんによって身体がどう変化するのかを具体的に体感していった。行なった検証は床に寝た相手を立てないように押さえるというものだが、「押さえよう」とすればするほど、相手は立ち上がってくる。しかし、力を一切使わずに、あるいは型を正しく行なうことによって、相手を「押さえようとする心・欲」を捨てると、相手は立てなくなる。そこに対立がなくなるからだ。



塾長に振れずに立てなくされている



欲を捨てる稽古。投げよう、押さえようとすると相手が立ってくる 
この「なにかしよう」という欲をなくす稽古が日常に生きてくるのだ



この調和のあり方は、剣のあり方につながっていく





剣と相手との接点をなくすと倒すことができる。「切ると突く」が一緒


このように相手を立てなくしたり、投げたりできるということは、すなわち相手と完璧に調和しているということ。その状態をつくれると相手を力に頼らずに押さえたり投げることができる。その時の身体というのは、部分ではなく、気が通った調和する統一体となっている。
「とらわれない心から、とらわれない身体が生まれる」と塾長は言う。つまり、「投げよう」「押さえよう」とする意識は必ず相手に伝わり対立の原因となってしまうのだ。だからこそ、「すべてを捨てる。心でやる」ことが大事になってくる。そうすると相手はその起こりをキャッチできずに倒される。意識、欲を捨てる大切さがここにある。





とらわれない心で投げる


さらに気づかなくてはならないことは、私たちは倒されると、「負けた」という発想になるが、それは間違いであるということだ。調和力で抑えられたり投げられたりした人は、実は投げられつつも、自身のなかに相手のその「調和の力」を自分にうつしている。その証拠に、投げられても、そのまま投げた人を投げることができるのである。調和は連鎖し、そこには「勝ち負け」がないということだ。そしてその調和している内面のあり方こそが日常につながっていくのである。このような「我を取り、欲をなくす」という内面を鍛える最良の方法が、型稽古にあり、そしてこのような勝ち負けのない次元を身体に刻み込む稽古がひいては世界の平和につながるのだと塾長は言う。


■ 学びを深めるということ

サンチンの型の次に稽古したのはナイファンチンの型だ。

ナイファンチンの型では、まず型からくる脇の締めを学ぶ。通常の脇を締めは、力によるため、相手は簡単に抵抗できる。しかし正しい型からくる締めは、そうした従来の力による締めとはまったく異質の、一瞬にしてゆるがない強さを作る。その違いを検証のなかで体感していった。
セミナー中、参加者からナイファンチンの型の脇の締めと、ただ身体が緊張している状態の違いが分からない、という質問が出た。塾長はその質問者に対し、言葉で説明をするのではなく、ナイファンチンの締めがきちんとできている状態であれば、相手の腕を脇にはさんで歩くほどの力が出たり、相手をそのまま投げられる力が出ること、もしそれができなければ、本来の型からくる脇の締めにはなっていないということを身体を通して示していった。

「身体が答えを知っているということです。できる、できない、ではなく、そのような身体の気づきが大事であり、その事実からさらに学びを深かめていくことが大切であるのです」



ナイファンチンの型




ナイファンチンの型からくる力を体感させる塾長


このように塾長は常に、理屈ではなく、実践で示し、実際に身体で体感してもらうという形で指導をしていく。
まさに「ビールの味は飲めば分かる」と同じで、「分かる」ということは、実際に「できて」こそ真に「分かる」ということなのである。すなわち自分の分かる範囲での理解にこだわっていては、永遠に「分かる」ことがないということだ。塾長は、「中心ということも、中心がつくれてこそ、“中心をずらす”意味が分かる」と語り、そのようにして常に自分のレベルにとどまらず、深さに向かう謙虚な姿勢の大切さを説き、初日のセミナーを締めくくった。

初日のセミナーの夜には、シアトル支部長であるジョシュ・ドラックマン邸にて塾長を囲んでのホームパーティが開かれた。塾長の会社時代の話や修行時代を伺える絶好の機会でもある。
また、腕相撲の検証など、塾長の気の実践を、ひとりひとり間近に体感できるまたとない機会ともなっている。





■ 未来から今を見る 時間の先取り

二日目のセミナーの指導の中心は、時間の概念であった。従来の「見て、それを判断して処理をする」というあり方では、人によって個別の速さの差はあっても、「見て、処理する」という時間の流れの中にあることには変わりない。
これに対し塾長が指導するのは、「時間の先取り」である。つまり、何かかが起こる前に、それを先取りして処理をするというあり方だ。









この先取りする時間の概念は、常に刀を差し、抜けば自分が切られるか、相手を殺めるかという、常に生と死を背負っていた侍の時代の武術文化からきているものであり、現代に見る多くの武道のように、スポーツ化されたり勝負にだわっていては決して見られない世界だと塾長は言う。勝てば相手を殺し家族の恨みをかい、負ければ自分が死に、自分も家族も守れない。だからこそ、武術は「戦わずして勝つ」の境地に至るまで高められたのであり、その境地に至るプロセスで生まれたのが「気」なのである。

そして、この「気」が身体に通り、統一体となれば、「未来から今を見ることができる」と塾長。それは、統一体が、筋肉を主体としたあり方ではなく、細胞の働きを主体とするあり方であるからだ。筋肉ではなく細胞を働かす統一体のスピードは桁違いに速くなり、そのスピードが今に対する様々な答えを引き寄せるからだ。





そうしたあり方こそ、かつての剣聖、伊藤一刀斉藤、柳生石舟斉、柳生兵庫助、山岡鉄舟などが体現していた、無刀流からくる「気」であると塾長は言う。
(たとえば柳生新陰流の第三代を継いだ柳生兵庫助は、諸国修業の旅に出ている際、紀州熊野の山中で、阿多棒庵という隠者から長刀や槍術を学んだことで知られているが、津本陽原作の『柳生兵庫助』という劇画にこんな一シーンがある。
囲炉裏をはさんで兵庫助と話をしていた阿多棒庵が兵庫助に棚の上にある火吹き竹を取ってくるように頼む。取りに立ち上がった兵庫助はしかし、棚の前でなぜかぴたりと動きを止めてしまう。阿多棒庵が兵庫助に気をかけて兵庫助の手を動かぬようにしたのだ。その後我にかえって戻ってきた兵庫助に、阿多棒庵が「なぜ動きをとめたのか」と問うと、兵庫助は「動かぬことがなぜか心地よかった」と答えている。阿多棒庵はその術のことを「観受の気」と説明している。気によって完璧に相手をゼロ化しているのである。劇画のなかの話ではあるが、この話に象徴されるように、こうした境地に人をいたらしめる術のあり方というのは、生か死かを常に背負っているかつての剣聖たちが、目に見える術技の稽古以上に修行の要としたのであり、そのような次元に達するからこそ、そのあり方が日常にも自然に発揮され、先に分かる、察するという形で、身を守ることにもつながっていったのだ。さらにそれが、その人の人間としての厚み、深さにつながっていったはずだ。武術というのはそのような次元における高次元の人間修行となっていたのである。)

そのような江戸時代に究極とされた「気」の次元を、塾長は現代によみがえらせ、さらに、誰に対しても、何時でも、何回でも再現できるという、客観性、普遍性、再現性という科学的な根拠を以て示している。またそれのみにとどまらず、第三者にも同じ次元のことをやらせるという境地にある。さらにその「気」の境地を、人間の潜在能力の開発技術にまで高め応用し、世界に類のない理論と実践を編み出している。だからこそ、気の指導は、多くの人を変化に導いているのだ。


■ 子供の素直を映す
 
二日目の午後は、参加者の子供に参加してもらっての検証を行なった。それは、がっちり一列に組んだ大人の列を引っ張るというものだ。
大人の列を、大人が力づくで引っ張ってもできないが、子供は引っ張ることができる。子供には大人のような「欲」がないので、相手と自然体で調和して引っ張ることができるのだと塾長。これに対し、「引っ張ってやろう」という意識が働く大人は、相手と衝突してしまい、相手に抵抗されてしまうのだと言う。しかし、子供に触れてもらうと、とたんに大人も引っ張ることができるようになる。それは、子供の素直さが、大人の身体に映っていくということであるのだと塾長は言う。

 

大人は引っ張ることができないが・・・


子供には引っ張ることができる


子供に触れてもらうと引っ張ることができる


この子供の素直で調和する力は、生まれながらに私たち人間がもつ能力であり、この力をその後の知識優先の頭の教育や、筋力主体のスポーツなどで壊してはならないと、塾長は語る。子供のもつ力を目の当たりにした参加者は、驚きながらも深くうなづき納得している様子であった。

子供は大人にその素直さを映すことができているが、この「映す」は、塾長と参加者の間にも常に起こっているあり方だ。たとえば、二人に足首を押さえつけられて動けなくなっているにも関わらず、塾長がサンチンの型をその場で行なうことで、その場の空気が変わり、自然体で歩けるようになったり、あるいは床に寝た全員が急に重くなり持ち上がらなくなるなどの変化を及ぼすことができる。
このことが示していることは、塾長が人数や場所にかかわらず、自分の状態を相手に映すことができている、その場の空気を変えることができているということである。



塾長がサンチンの型をすると


足をおさえられても自然体で歩けるようになる


塾長がその場で空気を変えると、とたんに床に寝た人が重くなり持ち上がらなくなる


すなわち、相手が50人であろうが100人であろうが、その場の空気を変化させることで、全員を一瞬にして変化させることができる次元にあるということだ。そうした実践が教えていることは、すべて、相手ではなく塾長のあり方によって塾生に変化が起こっているということ、すなわち、変化を起こす主体は自分自身である、ということを教えているのである。

自分のあり方や変化が相手にうつっていく、影響をしていく。だからこそぶれない自分をつくる、調和できる自分をつくることが大切であること。そのことを理屈抜きに実践しやってみせているからこそ、塾長が常に言う、「すべては自分である。自分が変われば周りが変わる」というあり方も、説得力をもって参加者に伝わっていくのである。

すなわち、武術的に高くはるかな次元にありながらも、その実践は、日常としっかりつながるものであり、だからこそ真剣に学ぶ参加者が、日常という自身の舞台でチャレンジしていく勇気につながっていくのだ。
その証が、このセミナー後の、参加者たちの感想文である。どの感想文を読んでも、塾長から映してもらったエネルギーを感じるものばかりである。ぜひ参加者の感想文も読んでいただきたい(こちら)。

二日間のセミナーに同行し、あらためて感じたことは、「自分が変われば周りが変わる」―― この一人革命の実践を、これほど具体的にはっきりと目に見える形でやってみせ体験させてくれる塾長の姿こそ、参加者たちの希望であり、まさに人間再生そのものであるということだった。
取材という形で同行させていただき、私自身もたくさんのことに気づき、学ばせていただいた二日間であった。

どう出版 編集部



第5回 宇城空手シアトルセミナー 記念写真



第5回 宇城空手シアトルセミナー感想文はこちらへ

ニュース一覧に戻る