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人間は、生まれながらにして完成形

~気とは何か、その根源にあるもの~

●宇城塾長の気とは ●気によって起こる現象 ●気そのものの特徴 ●まとめ

 宇城塾長は現在、道塾や空手実践塾において人間の中に眠る潜在能力を引き出す実践を展開しています。それは、今の常識ではあり得ないことを実際可能とする体験を通して、自分の中の潜在能力に気づいてもらうというものです。

 今の常識ではあり得ないことを可能にするメソッドには、独自の宇城式プロセス(過程・手順)があり、それを可能にする根源が「気」です。

理論は実証できなければ哲学となり、実証できて初めて科学となります。この「気」の世界は「実証先にありき」であり、理論は後追いにある段階です。この現実は同時に、未知の世界とNEW科学の追究につながるものと言えます。

 なぜ「NEW科学」なのか――。

従来の科学は要素還元主義の部分分析の立場をとっており、たとえそれらの部分を土台に統合したとしても、真の統合にはなりません。機械系であればそれが可能でも、生命体系では不可能です。

これに対し宇城塾長の「気」による取り組みは、最初から統合的立場、すなわち「統一体」という生命体系にたつもので、実証事実に基づくあり方です。これが宇城塾長の「気」を「NEW科学」と位置付ける所以です。

 現在、塾長が実践している「気」の事象は既存の理論では説明がつきません。しかし実証事実として「できている」という現実が先行していることから、「絶対仮説」と位置付けています。それは、理論展開が先行する従来の科学の仮説とは全く異なるものです。

宇城塾長の気の「絶対仮説」とは、「気」は重力に働きかけ、空間の変化(重力場)をつくるというものです。この仮説の現象とよく合致しているのが、アインシュタインが提唱した質量と時間、重力のあり方です。

 

アインシュタインは重力論で、「重力の正体とは、質量をもつ物のまわりの空間に生じた「なんらかの変化」であり、その変化が空間を伝わって別の物に影響を及ぼす。その物の質量が大きいほど空間が大きく変化する」と述べています。

 

 宇城塾長の「気」は空間の変化として実際に重力場をつくることができていて、それによってその場が変化するという事実があるので、まさにこのアインシュタインの理論は「気」によって作り出される異次元時空とよく合致しています。

 

  宇城道塾と空手実践塾では、こうした「気」の事象を、検証メソッドとして「実証性、再現性、客観性」によって科学的にも証明しています。すなわち、

 

 ①実証性 (考えられた仮説が、観察、実験によって検討することができる)

 

 ②再現性 (仮説を観察、実験する時に、時間や場所を変えたり複数回行なっても同一の結果が得られている)

 

 ③客観性(実証性や再現性という条件を満たすことにより、多くの人によって承認、公認されている)

 

以下は、検証を踏まえた塾長による「気の絶対仮説理論」です。

気によって起こる現象
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まず「気」によって起こる事象を述べ、次にその事実、実例(写真、映像あり)をあげ、

それぞれの仮説理論を述べる形をとる。

事象1 重量が変わる

事例1

おんぶした人が気によって一瞬にして重くなったり軽くなったりする変化

事例2

床に仰向けになっている人を引っ張る例において、寝ている人が一瞬にして重くなったり軽くなったりすることによって、引っ張る人が楽に引っ張ることができたり、逆に急に重くなってブレーキがかかったりする変化

事例3

「もの」が重くなったり軽くなったりする変化 (NASA研究所のEdger氏も体験済み)

<理論> 気は、重力の変化や重心に作用する

おんぶしているそれぞれの全員がいっぺんに重くなったり軽くなったりする事実。仰向けに寝た人を全員が楽に引っ張ったり、急に引っ張られなくなったりするという事実。またそれが人間でなく、もの(無生物)であっても重くなったり軽くなったりするという事実。しかも、この事実は単に一対一で作用しているのではなく、一瞬にして全体に変化を及ぼすということは、雰囲気、すなわち空間が同時に変化していると考えられるものである。
 この「気」による重さの変化は、体重計で測定できる変化ではない。この事実は体重計の数値が変化しないならば重さは変わらないとする現在科学の知識とは矛盾するものである。上記の事例から言えることは、

理論1

実際計測器による数値は変化しなくとも、重くなったり、軽くなったりするそのしくみに、重心移動や空間の重力に働きかける何らかのエネルギーが働いているといえる。

理論2

重力に何らかの変化があるということは、「空間のなかに時間をいれる」という働きかけがあるという仮説が立つ。

理論3

あるいは「重力が変わらない」とすると、人間の場合は体重計の数値が変わらないまま重くなったり軽くなったりするということは、上の人の重心移動によって下の人が上の人を重く感じたり軽く感じたりしているという仮説もたつ。しかし、無生物のものでも重い、軽いが起こるので、重心移動の説明だけでは矛盾がある。

理論4

あるいは、上の人自身が重くなると感じたのは、自分自身の重心の変化を自分自身で心理的に感じた結果ではないかとも言える。しかし、自分に自己暗示をかけて重くしたり、軽くしたりしようとしてもできないという矛盾がある。

理論5

床にあお向けになっている人を引っ張る時に、体重は一定なのに重くなったり軽くなったりしているという事実は、重力が変化することが考えられる。
あるいは、寝ている人と床との摩擦力が気によって変化しているということが考えられる。すなわち、摩擦力というのは、摩擦係数とその人の重さをかけた力が働くので、重さが変わらないということは、摩擦係数が変化したと考えられる。
身体が棒状になれば、摩擦係数が減り引っ張りやすくなるが、重心が身体に均等にかかれば、摩擦係数も増えて重く感じる。そういう変化を身体に与えることで、身体と地面との接触状態を変え、それが重さに変化を与えているのではないか。
  これは、眠った人を引っ張るのと起きている人を引っ張るのと重さが違うことと同じと考えられる。眠った人が重いのは、重心の位置が分散していることにあるのではないか。それを「気」は、眠っていない人でも瞬時に両方の状態にできるということである。

事象2 引力(調和・融合力)ができるという事象

事例1

壁に背をぴたっとくっつけて立った人を前から引っ張ると、何もない場合は当然簡単に引っ張られるが、気をかけると壁にくっつき引っ張られにくくなる。さらに引っ張っている人を逆に自分のほうへ引っ張りこむことができる。すなわち壁にぴったり張り付いているので後ろに下がることはできないはずなのに、前の人が引き込まれるという変化。

事例2

二人の相対した人が、それぞれ手の平同士を合わせた状態で一方が片手押すと、手が滑って押すことができないが、気を通すとお互いの手の平がくっつき、簡単に相手を押すことができるという変化。

事例3

技で投げられた人の手にそえられているだけなのに、投げた人の手にくっついて離れなくなるという変化

 <理論> 気は、引力(調和・融合力)を発生させる

理論1

引っ張られている人が逆に引っ張っている相手を壁を背にしている自分のほうへ引っ張ることができるということは、そこに距離を必要としないなんらかの引力が気によって発生している証拠であると言える。

理論2

手の平同士を合わせて押してもすべらないでぴったりくっついているということは、気によって細胞が活性化され、その結果肌がきめが細かくなり、互いの手がすいつく形になったと考えられる。すなわちきめ細かくなった肌のために接触面が増えることによって接触面の摩擦が増えたのだと考えられる。

理論3

投げられた人の手が投げた人の手から離れなくなり、しかもその接触点だけで抑えられ起き上がれなくなるということは、②項に記したことに加え、投げられた人が完全に硬直化された状態にされていると言える。

事象3 無力化される事象

事例1

攻撃していっても一瞬にその攻撃が無力化されるという変化

事例2

相手の肩を意識的に強く抑えていても、強く押さえるという意識に反してその力が抜けさせられてしまう変化

事例3

意識して両手で相手の手首を強くつかんでいても、身体が無力化され投げられてしまう変化

 <理論> 気は、時間に働きかける。主観的な時間のスピードを制御できる

理論

攻撃していっても一瞬にして無力化され投げられてしまう、あるいは意識して抑えたり、つかんだりしても、その力が抜けてしまうということは、そこにぶつかりあう衝突がなく逆に調和が生じ、相手が手がかりを失い無力化されるのではないかと言える。なぜ衝突が調和に変わるかについては、時間の変化が作用していると考える。すなわち、高速度撮影した現象は、再生時にスローモーションになって再現されるが、これと似ていて、自分の内面のスピードが高速になれば相手がスローモーション現象になる。ただし再現ではなく同時進行である。スローモーションでは衝突が消え調和する、そして現実には衝突であった事象でも調和すると同時に無意識下の状態にさせられてしまうことにあると考える。つまり、意識のスピードでは及ばないのである。
意識と無意識の世界を描いた『マインド・タイム』(脳と意識の時間)の著者ベンジャミン・リベットは、人の行動においてゼロから0.5秒の間は人間が意識できない無意識の世界であるとし、それを実験で証明しており、行動は、0.2秒後から始まるが、それを自覚できるのは、0.5秒後と述べている。以上から以下の仮説が可能となる。

「気」は、この0.2秒より以前の無意識の世界にはいりこむ時間をもつと考える。すなわち同じ時間同士であると、接触点に衝突がおきる現象も、相手の何万倍のスピードで相手のなかに入り込むと、相手は事の起こりをキャッチできず、反応不能となり結果、無力化され調和されていくという現象が起きると考える。

 すなわち、相手の意識する以前の無意識の世界で発せられている、波長を感知し、相手の事の起こりを見ているといえる。このことは、「気」が時間に働きかけ、スピードを変えているということが言えるのである。

事象4 身体が変化する事象

事例1

前屈や上体ひねり、あるいは、指で首を突いたり、うつぶせに寝た人のふくらはぎを親指で押すといった状況において、ふつうに行なう場合と、気を通された状態で行なうのとでは格段に身体の柔らかさに違いが生じるという変化。

事例2

相手の二の腕や髪の毛、あるいは耳をつまんだりひっぱったりすると、飛び上がるほど痛みを感じるが、気によってその痛みがとれ、さらにはつままれたまま相手を投げることができるほどの変化。

 <理論> 気は、細胞に働きかける

理論1

身体が一瞬にして柔らかくなるのは、気が筋肉ではなく、細胞に作用し、細胞が活性化された結果であると言えるのではないか。

理論2

つまんだ腕や足が気によって瞬時に痛みが明らかにゆるく、あるいはなくなるということは、身体に変化が起きている証拠であるが、実際柔らかくなったり、剛くなったりするのでその変化がよくわかる。硬軟の変化ではなく、剛柔の変化である。さらにつままれたまま人を投げることができるということは、強さに加えて身体が居つかず自由であることの証拠である。
 

すなわち、通常つままれればその部分の神経によって痛みを感じ、その痛みが脳に伝わる。気によってその痛みがなくなる、あるいはゆるくなるということは、つまんでいる圧力が大きくてもそれが圧力以上の高速で分散され続けているので痛みを感じない、あるいは、神経の信号系統自体になんらかの作用がおきると考えられる。すなわち、神経を動かしている細胞レベルになんらかの変化が起きていることが考えられるのである。
 

「気」をキャッチするのは、脳(頭)ではなく、60兆個の細胞であると考えられ、このような事実によって仮説が成り立つのである。
 

「気」を通した状態で仰向けになった人の腹や太腿や腕に乗っても痛くないのは、気が通ることによって細胞の状態が変化し、細胞による力の分散および強くなることによって神経の感知力状態がかわって、痛まなくなるということだと考える。

事象5 身体が強くなるという事象

事例1

腕相撲において、片方は床につけた状態から相手をひっくり返すという腕相撲は100%不可能である。しかし、押さえられていても、気によって相手を体ごとひっくりかえす力が出るという変化

事例2

たばになった複数の相手を投げたり、押したりすることは絶対不可能であるが気をかけるとできるようになる変化

事例3

人間が腕を左右にのばして両側に立つ人の肩に手を置き、気によって人間鉄棒になったところに、人がぶらさがってもあるいは、逆上がりするなどしても大丈夫になる変化

 <理論> 気は、筋トレとは桁違いな強さを身体に与える

理論1

腕相撲やたばになった複数相手を押したり投げたりと、気によって身体が一瞬にして強くなるということは、それが筋肉の鍛錬によるものではないことの証拠である。

理論2

人間鉄棒の例に見るような検証で、もし我慢して筋肉の硬直した強さであったら、大人2人がぶらさがるなどは到底不可能で、折れるなどの危険があるが、気による強さは柔らかさのともなう強さとなっているので、両手に人を乗せたまま移動することもできる。それは手をかけている両肩の二人も気が通っているので、重さを感じず、かつ自由さがあるから可能なのである。

理論3

いずれの例からも言えることは、暗示や精神論、心理作用での実践は到底不可能なことであり、それが、逆説的に気がそこに確実に作用していることを裏付けるものである。

事象6 怖さが消えるという事象

事例1

相手が手刀で攻撃するところへ、気によってすっと中にはいっていけるという変化

事例2

相手が竹刀や木刀で打ち込んでくるところへ、気によってなかに入り相手を制することができるという変化

 <理論> 気は、怖さを消す

理論

①でも②でも実際やってみれば、明白なことだが、打ちこんでくるところにはいるのは通常では不可能である。怖さを先に感じ、まったく入れなくなる。無理に入ろうとするとその危険を感じ反射的に手を出して受けようとするが、木刀だと骨折し、日本刀だと斬られてしまうことになる。

以上から言えることは、

① ② のように実際に入っていけるということは、そこに、「怖さ」が消えているということの証拠でもある。すなわち、頭で怖くないと思っても身体は無意識によけてしまうものだが、それがはいっていけるということは、身体から「怖さ」が消えているということである。まさに、これは「事理一致」という境地の結果からくる「威と勢」である。
*(伊東一刀斎 剣法書)

事象7 スピードが早くなるという事象

事例

相手の瞬発攻撃に対して正面から入ると同時に相手の後ろにまわって瞬時に相手を制するという変化

 <理論> 気は、相手の動きをスローにする

理論

瞬発攻撃に対して、正面から入ると同時に、一瞬にして後ろにまわって瞬時に相手を制しているということは、それだけスピードに差があるということであり、その差の度合いは、相手の動きがスローに見える程である。逆に言えば、それだけの余裕があるということである

気そのものの特徴
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気は、不可能と思われることを瞬時に可能にする

エネルギーの概念

気は、瞬時に(0.00…………秒)に全体に、全員に伝わる

時間の概念

身体内面の超高速スピードが調和を生む

 「気」は、すべてにおいて時間、スピードが関係していると考える。たとえば、高位置から卵を落とし、地面に落ちて割れる瞬間は、目に見える現象は衝突であるが、高速度カメラで撮影したものを再現して見ると、すべてがゆっくりで柔らかく、そこにはまったく衝突がない。
 別の例をあげれば、バンジージャンプを経験した人に、あとで体験した体感時間をストップウォッチではかってもらうと、高さにもよるが実際は、4~5秒であるにもかかわらず、たいていの人は、6~7秒くらいに感じており、約30パーセントほど時間を長く感じている検証がある。これは落ちる時の人間の脳が、卵の例のように高速度撮影状態であることを示している。
 ここで言えることは、上記のような高速度撮影状態を、自分自身にも、そして他人にも一瞬にしてつくることができているということである。気を通されると時間のスピードが速くなり、すべてがゆっくりに見えるので、どんな状況にでもすべてがよく見えるので、相手に入っていけるという余裕が生まれる。すなわち、対象と完璧に同調、調和できるので怖さも克服できる。(怖さの克服は、根性や心理的な努力によっては絶対に取り除くことができない。)

まとめ
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 以上、ここで紹介した「気」の実践、すなわち、重力レベル、時間レベル、細胞レベルの変化において、そこに共通することは、「衝突」がないということである。衝突が気によって瞬時に調和に変化しているといえる。ここで言う、調和とは、衝突を生じさせない世界、すなわち、武道の世界で言えば、生と死のなかから導き出された究極の「戦わずして勝つ」の世界であり、それは、武道だけでなく、技術開発や経営をするなかでも、行動の哲学として、常に日常のなかで実践されてきたことである。
調和を導き、人をして恐れずに行動を促す気の実践は、世界的な危機的状況にある現在において、その影響力、また日常への活用において、はかりしれない可能性をもつものと考える。

 以上ここで紹介した事例のうち、≪事象Ⅰ≫ ≪事象Ⅱ≫ については、重力をコントロールし、あるいは引力を発生させるなど、従来の物理的な解釈では説明できないような事例をあげているが、それらには再現性、客観性、普遍性があるという事実は科学的裏づけとして、物理的な面から見て、いったいどのような理論的説明をもって解明できるのかを問いかけるものである。

 また、≪事象Ⅲ≫ ≪事象Ⅳ≫ ≪事象Ⅴ≫ では、身体に対し、実際に変化を与えているという事象がある。ここでの変化の中身は、意識とは無関係に身体の力が抜けてしまう、あるいは神経があるにもかかわらず痛みを感じない、人の力ではぜったいに不可能とも言えるたばになった複数の人を押したり倒すなどができてしまう身体になるというものである。そのような身体の変化は、これまで、火事場の馬鹿力的な次元で表現はされてきたももの、再現性、客観性、普遍性という形で、具体的にきちんと解明されることはなかった。こうした身体の変化に対して、現在の医学的な見地からどのような説明ができるのかを問いたいと思う。まさに人間の能力を開発するという意味では、気がどのように身体に作用しているかを解明することは、たいへん価値あることであると思う。

 最後に≪事象Ⅵ≫ ≪事象Ⅶ≫ については、無意識のところへの働きかけができ、人間が意識できるスピードよりも早いスピードを感知できる、その感知のレベルがあがることによって相手がスローに見え、怖さが消える、そういう作用がある。それはいったい、身体と心の関係においてどのような関係が説明されるものであるかを問いかけるものである。

 こうした実践は、従来のどの科学の範疇においても説明しえぬ次元の内容であり、こうした変化に対し、物理の世界はもとより、脳科学や、医学の面から、どのような仮説、理論が可能であるのか、専門家の意見をたまわりたいと願うものである。

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