2017年 東京宇城道塾Aクラス 第5回 が開催されました。
去る2017年9月20日(水)東京道塾Aクラス第5回が東京都町田市民ホールで行なわれました。
当日は、冒頭から、やってみせて検証するという宇城塾長の実践「実証先にありき」を主体とした講義が行なわれました。
両方から10人ずつで空手の黒帯を引き合う。
伸縮性がなく伸び縮みするはずのない帯が、宇城塾長の「気」によって伸びていく、あるいは内側に10人の身体ごと引き込まれていく。
さらに、4対10の綱引き。
通常では勝ち目のない勝負であるのに、気をかけられた4人が瞬時に強くなって10人を引っ張り込む。
両方から10名で帯を引き合う。伸縮性のない帯が気によって伸び縮みする。
写真は、「気」によって帯が縮みながら内側に引っ張り込んでいるところ
4人対10人で引き合う。4人は簡単に引き込まれてしまう。
4人に「気」でエネルギーを与えると、逆に10人を引き込んでいく。
木剣で思いっきり打ち込んでいく。
瞬時に制されている
塾生は、通常ではあり得ないエネルギーを体験し、人間が持つ本質的な力に気づかされていきます。
以下は、当日参加した塾生の感想です。
(※この感想の実践の動画を道塾のFACEBOOKでも見ることができます。)
今回、帯を左右10名で引っ張り合う状況のなか、固くて頑丈な帯が先生の「気」をかけた瞬間に伸び縮みするといった有り得ない体験をしました。
通常ならば互いに力と力を加えた帯はピンッと張った状態からさらに伸びることはありません。
しかし先生が「気」を送るとそこからさらにぐわっと帯が実際に伸びることを体験したのです。
しかも今度は何もないところ、むしろ一番力が加わっているはずの帯の中心から逆に全員が引っ張られるというとんでもない体験です。
それは周りから見ていても実際に帯が伸びたり、縮んだりすることがはっきりわかるほどの変化でした。
しかし、この体験をその場にいない誰かに話したところで信じる人はいません。むしろ信じないことが普通であり、体験せずして信じるほうがおかしいぐらいと感じました。
なぜなら先生が私達に見せ、体験させてくださる事象の数々はすべてが従来の常識のなかには答えのない世界であり、実際にその場で見た人、体験した人でなくては到底想像すら及ばぬ世界だからです。
それは言葉や頭では到底理解することができない情報量でもあり、身体を通してでなくてはキャッチしきれない世界であることを深く痛感致しました。
先生が常に実践で示してくださる「百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず」の限りない深さを教えてくださる目には見えない世界です。
また10人以上でがっちり組んだスクラムを先生はいとも簡単に押したり、引っ張ったりすることをやってのけてしまいます。その際、スクラム側は増々押されまい、引っ張れまいと誰もが強く意識するものの、先生はこの「意識」を取ることができると仰り、実際に意識を取られた身体は何か拠り所を失ったかのように倒されてしまいました。この時、頭の命令は効かず、為す術がありません。
加えて、意識を取られた身体は完全に居ついてしまい、一番危険な状態へと陥り自ら強く意識したことによる自業自得な結果を招くことになりました。
だからこそ意識は意味がない、人数が多ければ多い程ラクである、と先生は話されました。
しかし私達は頭が先、意識が行動の先に働いてしまう病気を抱えてしまっています。
実際に行動を起こす前に頭が介入してしまい、「心なし」の働きを起こしてしまう。
電車でおばあさんが乗ってきたら「席を譲ろうかな」と頭で考えてしまう。
頭で考えることが現代教育では大切なことであると教え込まれていますが、その前の実践先にありき、行動が先であることが抜けてしまっている。頭→意識→行動では無意識化になりません。席を譲っている自分。身体先にありき、行動が先、心が先であること。
私達はこの病気を毎日の行動、身体を通して直していかなくてはならず、あらためて失った心を取り戻さなくてはならないと痛感致しました。
先生が常に教え、示してくださる「身体が先」であること。意識や頭の命令は効かないこと。
組手で先生に向かっていくときほど、それを感じることはありません。
頭でいくら攻撃を仕掛けようと思っても身体が完全にびびってしまう、身体が動かない。
幕末などの剣聖と呼ばれた達人は戦う前に事を制していた。しかし、強引な力まかせで来る相手や、頭で切り替えて、なおも斬りかかってきた相手に対しては止む終えず斬り伏せる。
宇城先生は全く同じことを再現できる。
今回、木刀で先生におもいっきり打ち込みにいかせて頂きました。
しかし、先生に当たることなく木刀を振り下ろした自分のほうが完全に制されてしまう。
何度も何度もやられる度にこちらは増々気合いを入れ、本気で打ち込んでいくのにやられてしまう。後から振り返っても言葉では説明ができず、なぜ先生はあのような動きができるのか全く分かりません。
帯が伸びたり、縮んだりするエネルギーも一体どこからきているのか?これは誰にもわかりません。
本当にわかったのであれば、「では、やってみて」と。私達は安易に「わかった」という言葉を使ってしまいますが、その「わかった」という真の意味を大きくはき違えていることを痛感しました。
どんな化学や理屈をこじ付けたとしても頭での「わかった」は、やはり部分体であり、八識である知識の部分約1%の世界で「わかった」と頷いているに過ぎません。
それはわずかな点であり、点を線に、線を面にしていく発展性や応用、活かしていくことは叶いません。
帯が伸びたり縮んだりする従来の常識では考えられない事象や、振り下ろす木刀に全く動ずることなく入っていくことができる答えを持っているのは常に実証、実践で示してくださる宇城先生しかいないことは間違いありません。
知識偏重の私達は言葉や知識でその伝えられない凄さや感動を伝えようとします。しかしその発想が物凄くインスタント的な発想であり、横着そのものであることを痛感致しました。
今回、「指導とは、自分の変化、成長を見せていくこと。」という先生の言葉が物凄く心に残りました。
周りを行動で説得出来ていない自分は、まさに行動していないことを突き付けられた思いです。
説得できないとは負けているということでもあると思います。それは自分に負けているということ。
先生は「差別は絶対駄目だが、そういった差はいくらでもつけなさい」と仰っている。
人に元気や希望を与えていくのも自分の変化、成長を見せていくこと。
言葉ではなく、まず自分が行動、変化で示していく。
優劣を作る現代社会の知識の約1%の世界に負けてはならないと思いました。
日々、負けない自分を創っていく。ぶれない、動じない自分を創っていく。自分に克つよう日々精進して参りたいと思います。
(東京 会社真 30歳 男性 NS)
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