第35回 東京実践塾合宿 感想文
■東京 会社員 K.S
合宿稽古に参加させていただきありがとうございました。2日目からの参加となりましたが、非常に中身の濃い時間をいただき、たくさんの学びがありました。
木刀の稽古では握り方を教えていただきました。先生に手のひらの中心を抑えられると手が握れない、別の場所であればいくら強く抑えられても当然のように手が握れます。その一点を意識して空気を入れるような感じで木刀を握りました。
先生には、私がプロ野球時代にもバットの握り方を教えていただいています。当時では気づかなかったことが10数年もたって繋がっていることに驚きました。またバットを振る際、振って終わりではなく残心というものをご指導いただいたことを今でも鮮明に覚えています。
先日の合宿でも木刀を振る際、振って終わりではなく振り終わったあとに突きが入っている。そのことと残心が紐付き、10数年前に教わったこととの繋がりに自分でも驚愕いたしました。当時何度も教わっていたのですが今ようやく仰っていただいていた意味が少しだけですがこの合宿中で気づくことができました。
本来であれば先生の一つ一つのご指導の中にもまだまだたくさんのことが含まれているのですが、私のレベルでしか学ぶことができていないと痛感しております。学ぶ側のレベル・姿勢でいくらでも学ぶことができる、合宿中は気づきと反省の繰り返しでした。
当時からよく先生は積み重ねになる練習(稽古)をしなさいと仰っていただいていました。スポーツの指導はその場限りで競技向上だけの目的でそのあとには続かない、日常への派生などありえません。スポーツはスポーツ、日常は日常、仕事は仕事です。しかし先生のご指導は全く違います。競技においても自身の認識する・しないは別で身体が変化します。その変化にも気づかない選手が多数いると思います。当時の私もそうでした。知らず知らずのうちに身体が変化し、すぐに絶大な効果に繋がります。
しかし本質はそこではなく何十年も心の中に残り、それが日常へと派生していきあらゆる場面で活きてきます。常に先生は真理をご指導してくださっているからだと思います。そんなご指導を10数年も前からいただいていたと思うと、ただただ感謝しかございません。野球指導は思い返してもほとんど出てきませんが、先生のご指導は自然に日常の場面で沸いて出てきます。比較するのも失礼なほど桁が違いすぎると最近益々感じるようになりました。
2日目稽古の冒頭で人に手を出すとはどういうことかということを厳しくご指導いただきました。手を出すとは祖先を冒涜する行為であり自分の心の弱さでしかない。どんな状況においても手を出すということを繋ぎ止めるのが心であり、それを創るのが「創心館」であるということをあらためて学びました。どんな人生を歩んでこようとその一瞬ですべてが台無しになると仰っていただいた先生の強いお言葉は一生の胸に刻んでおくと固く決意いたしました。
やはりスポーツ空手とは次元が違い、宇城空手は守るというのが常に根底にあり戦わずして勝つということを人生のあらゆる場面で創り上げていくことが大切であると思います。単なる精神論ではなく、具体的な技・術を先生は実践を通じて見本を示してくださります。先生に近づくことは到底できませんが、その歩まれた道を邁進できるように、自分自身のレベルを上げ成長していくことが何より大切であると思っています。今回の合宿で起こったことを自身の教訓として心に留めておきたいと思っております。
コロナ禍であり感染者も増えている中、これだけの規模の合宿が行えること事態が普通では考えられないと思います。そのような場に参加させていただいたことに心より感謝いたしております。
何のために先生にご指導いただいているのかをより明確に指針として持ち、創心館の門下生として恥じぬような人生を全うしたいと思います。
ありがとうございました。
■千葉 自営業 C.N
宇城先生この度も大変貴重な合宿という時間を提供していただき誠にありがとうございます。現在のような世の中の状況にあって、何か偏った情報や冷静を失わずに過ごしていけるのは先生のおかげであります。 真剣という事を自分達にとってあらためて考えさせられる事となりましたが、「真剣に」という言葉は世の中に溢れてはいますが、本当の意味でわかっている体現されている方はほぼいないのだと思います。先生のもとで稽古をさせていただき、同じ時間空間を共有させていただいているからこそ真剣を先生から肌で感じています。 言葉や頭の理解の真剣とは本当に次元が違います。その先生の姿を写しながら日々重なっていけるように毎日を過ごし真剣に近づいていけるよう気を引き締めて参ります。 手の内について大変詳細に丁寧にご指導いただきました。この所作の中にとてつもない深遠さが含まれていてそこに気がつき引き出していくには本当に先生の仰る「ただひたすらに」という事が非常に刺さりました。しかし、自分は気をつけなければ考えもせずに「ただやる」「やっただけ」のひたすらになってしまいがちです。 ひたすらにやれるというのは、楽しくなる好きになる、そのために考えて検証しひたすらに取り組んでいく事なのかと感じています。身体を通して考え、気づき、検証してまた常に深めていく、「出来たはない」と仰られたのは先生が実践で、手の内をほどき指一本で触っているだけにもかかわらず相手は引く事ができない。そればかりか完全に手を離しても、触れずにしかも剣を構える所作だけで大勢が動いてしまう事を実際に体感させていただいているので、「出来たはない」というお言葉の深さを身をもって感じました。 手の内の稽古の際に直接先生にご指導いただくことがありました。木刀を持たず手を下ろしてきた時、「ここで抜けるだろ」と仰っていただきましたが自分ではわかりませんでした。この自分ではわからなかったという事をヒントにしなければいけないと思いました自分の中にはなかった感覚であり、手応えのない手応えを身体で気づく。 先生の世界を自分の中に刻む手がかりをいただいているのだから、わからないという実感とでもいうのでしょうか、自分が手応えと勘違いしていた実感を手放す事、そしてわからない時にすぐに頭で、「今のはどういう感じだろうと」余計な事をせずに、そのまま受け入れ落とし込む事がわからないままわかるに繋がるのではないかと感じました。 木刀を握った瞬間に自分の実感が出ました。その時に「力が入ってる」と先生に指摘していただいたのですが、まさに自分の世界の実感がその「力」なのだと、だからわからないという感覚を信じるというのか、そこに入っていく事を大事にしていきたいと思います。大変貴重な一触をありがとうございました。 拓治師範に指導をいただいていて今回特に感じたのが、とにかく身体から何かが湧き出し続けているように、それが楽しくて仕方がないというように見えました。そして、突く瞬間、技が発動する瞬間にまるで一瞬輝くというか、光がバンと弾けるように周りまで明るくなるように見えました。 先生が以前に仰っていた「暗いのはダメだ、自分を開く」という事はまさにこういういう事なのではないかと、自分達は突く瞬間、技に入る瞬間逆にシュッと縮まるというか小さくなるような感覚を受けます。そして出来ないと考えるというよりも悩み雰囲気が暗くなる、それを考えるというのか一生懸命やっていると勘違いしてるのではないかと強く思いました。 難しい顔をするのではなく、切り替えて真剣に楽しんでいく、出来るできないの前に技に入る前入る時に自分を開いていく、パッと開いていくという事を感じました。 仕事や日常を振り返ってみても、緊張したりイレギュラーな事が起きた時こそシュッと縮んでいる事がわかります。それと保身というかそのような時は間違いなく縮まり閉じて暗くなっていることに気がつきました。 そこで開く、胸のライトを照らす、という事も日常の稽古に繋がるという事に気づかせていただきました。実際に翌日仕事の中でも取り組みだすと、稽古の幅がひろがり検証にもなるように、今までよりも真剣に楽しんで仕事に取り組む事ができました。 今回の合宿を通していかに漠然と稽古をしてきたのかに気づく事ができました。まずは自分の癖に気が付き捨てる事、ずっと言われ続けている事なのに本当に気付いていませんでした。 突き一つとっても、みんなは狙っていない、と師範に指導をいただきました。弓矢をもし引いたならば、それが初めての時であっても狙うのは間違いないと思います。矢が下を向いたり上を向いたりしていれば直すはずです。 しかし引き手が下を向いていても気がつかないというのは考えていないという事です。本当に一つ一つ真剣に考える、身体で考えて稽古の質を上げていきます。 帰り際に先生に「チラシなどを丸めて手の内の稽古をすると良い」とご指導いただきました。やってみると軽いので、つい握った実感がないと感じましたがその実感のなさも稽古になるのだと気づきました。 自己満足の実感ではなく実のある稽古にしていく質を変えていく為にも必要な稽古である事を気づかせていただきました。本当にありがとうございました。 本当に貴重な充実した稽古、時間をありがとうございました。 日々稽古となるように過ごして参ります。 今後ともご指導の程宜しくお願い致します。
■神奈川 会社員 N.S
今回の合宿では、宇城先生という絶対存在の師匠がいてくださるからこそ私達は心から信じて、迷うことなく人間として進歩成長へ向かっていけるのだとあらためて思いました。それは、先生が常に頂点の姿を私達に見せてくださっているからです。 先生のもとで、ただひたすら稽古を心がけ、今の自分から少しでも変化、成長していきたいという思いを心新たにさせていただく合宿となりました。今回、合宿中に先生から「ただひたすら稽古」という言葉が心に残りました。その際、自身が今やっている事、今の稽古の積み重が先生が示してくださっている姿に向かっている一歩であるのかを常に自分自身へと問いかけていかなくてはいけないと思います。 今回、私は拓治師範の班でご指導を受けさせていただきました。班分けの時に、拓治師範のところで学びたいという思いが強くありました。師範の突き、瞬発力、力を抜く事、呼吸力を体感させていただき、少しでもその感覚を持ちかえりたいという思いがありました。 約14年前に宇城空手に出会い、その時から一切筋力トレーニングはやめましたが、私は、まだまだ力に頼ろうとする癖があり動作を行う度にすぐに力が入ります。なかでも分解組手で相手に突きに行く時に、力が入ることを感じておりました。合宿の分解組手の際にも拓治師範から「突いた時に、身体が浮いてる」とご指摘を受け、相手にダメージを与えようとする相対的な突きではなく、突いた時に身体が浮かない、自分を守る絶対的な突きを稽古していこうと明確な課題をいただきました。 また今回、先生の新刊「稽古照今」にもありました突きのあり方にて、突きの拳は弓と矢の関係という教えを念頭に稽古して参りたいと思います。 力を使った空手、身体の硬い空手の延長線上に先生の空手、宇城空手の姿はありません。合宿の度に拓治師範からは目の覚めるような瞬発力、一触を体感させていただいておりますが、今回の師範の技は一段と凄まじく、瞬発力はさることながら呼吸力の成せる技なのか、その場の空気、空間が変化するような技は、突きに行ってもこちらが完全に腑抜けになってしまいました。 また複数に両腕を掴まれて身動きが取れない状態の中、師範に触れていただくと掴んでいる全員を倒すことができました。自分でおこなうと力が抜き切らず、相手と衝突し、引っかかってしまいますが師範に触れていただくことにより相手との衝突が起こらず、集中力が出てくるエネルギーを体感させていただきました。 また拓治師範の突きや腕受けなどの引き手の姿、形、姿勢は、宇城先生の引き手の姿、形と全く同じだという印象を強く受けました。師範は、宇城先生の姿をそこまで映され、稽古されているのだと痛切に感じた瞬間でもありました。 「相手に入る」ことも、私達は「どうやったら相手に入れるか?」と頭で考えがちですが「相手に入る」術技も宇城先生をはじめ、榎本師範、拓治師範に体感させていただいているのですから、その体験を通しての感覚を枕に技を映していくことが大事だと思いました。徹底して真似ること、技を映していくことの重要性をあらためて感じました。 宇城先生から剣の持ち方の具体的なご指導もございました。正しい剣の握りとなれば木刀を掴んでいる相手を簡単に押すことができました。相手を押そうと意識が働くと、こちらも力となり相手を動かすことはできませんでした。 心身を一致させていく、心身の一致を崩さず胸のライトを照らし相手を捉える。自分の内からの意識が出たとき、相手を意識したときに心身の一致が崩れるため日々、一人稽古の型、剣の稽古を通して身体脳を開発していけるような積み重ねの稽古をして参りたいと思います。 合宿では、二次会の懇親会の場でも宇城先生、榎本師範、拓治師範と同じ時間を共有させていただき、貴重なひと時を過ごさせていただきました。榎本師範、拓治師範からは日常のお話や、空手の技や突き、稽古の取り組む姿勢などのお話を伺え大変勉強になりました。 なかでも一番心惹かれるのは両師範のすがすがしく明るい、自然体でいられるお人柄です。誰に対しても垣根なく接してくださりその場にいるだけで安心し、楽しく、自然と元気になっている自分がいます。 宇城先生が合宿中に話されました心を創る館と書いて創心館。「心なし」から「心あり」へ。宇城先生の空手、宇城空手を通して私は心を取り戻したい。宇城空手を通して人格を創っていきたい。宇城空手を通して本当に人を大切にする人間へと変化成長していきたいと思います。 合宿を終え日常へ返り、「真面目から真剣さへ」と先生の教えが頭によぎりました。真面目では、生き抜けない。自分に真剣さがなくては生き抜いていけないと感じました。「怯え」と「身の危険の感知」は別次元であること。真面目から真剣さへ。先生は常に私達に幸せに生きる道を照らし、導いてくださっていることにあらためて気づかされました。 相対的世界を乗り越えた絶対的世界に身を置けるよう24時間稽古を心がけて参ります。日常も真面目から真剣さへの心構えを持ち、自分に厳しさを求め謙虚になって稽古して参りたいと思います。 宇城先生、榎本師範、拓治師範、貴重なご指導を受けさせて頂き誠にありがとうございました。 今後ともご指導のほど、宜しくお願い申し上げます。
■ 神奈川 会社員 M.N
この度も大変素晴らしい実践塾の合宿に参加させて頂き誠にありがとうございました。
今回の合宿において、刀の握り方、小指の締め、掌の気の通り口を浮かせることなど、「刀の手の内」を丁寧にとても具体的に教えて頂きました。宇城先生から教えて頂いた「刀の手の内」は、想像できない程の武術の奥の深さを気づかせて頂きました。今改めて振り返ってみると、剣術を長年学んでいたとしても、一生知ることができないほどの極意を学ばせて頂いていたのだと改めて思いました。
「刀の手の内」を教えて頂いた後、稽古において二人で検証を続けていると、たくさんの気づきがありました。また、検証においては、相手の方の変化や他の人の検証を見る時にもたくさんの気付きがありました。
稽古の際、自分が受け手だった時、相手の方が、宇城先生の仰った手の内の通り、パッと木刀を下ろすと私の顔に圧のようなものが来た時がありました。そして、私はそのまま後ろへ押されてしまいました。また、押された時の感覚も通常の時とは違いました。通常の押され方をすると、自分の手や腰に相手の力がきて、踏ん張ることができます。しかし、その時の押され方は、最初に圧が来た時に自分の体が仰け反ってしまい、自分の手や腰に手ごたえが無くなり、体全体が押される感覚になりました。木刀で押される前にすでに押されている感覚でした。
宇城先生の仰るとおり、投げや突きは後処理であり、相手に入る一瞬、技がかかる一瞬が無ければ、相手を無力化することはできないと改めて実感致しました。木刀で相手を押す検証においては、木刀を振り下ろした時に空間の変化が無ければ、その後はただの力比べになってしまうのだと思いました。
また、相手の方が検証を繰り返すうちに、相手が手の握り方を意識したり、木刀を振り下ろしてから手を握りなおしたりすると、相手が急に小さくなっていくように感じました。そのような時は、さっきまでの圧のようなものが無くなり、木刀で押されることはなくなりました。
私が木刀を振って検証するときも同じようなことがありました。相手の方から「振ったときはいい感じなんだけど、押す時にそれが消える」と指摘してもらいました。その時、自分が木刀を振ったあと、手の内ができているか無意識に確認してから押していたことに気づきました。次に、木刀を振ったと同時に、意識を変えず、掌の気の通り口で相手に入っていくようにすると、相手を押すことができました。
その後、何回か交代しながら検証を続けましたが、できる時とできない時を繰り返しました。できた時と全く同じように木刀を振って押しているのに、自分でも気付かない程のほんの僅かな差で、検証の結果が全く違ったものになってしまいました。自分の内面の感度が荒いために、宇城先生の伝えて下さる技を自分に写すことができていないのだと改めて痛感致しました。
どんなに素晴らしい極意を教えて頂いても、受け手側にそれを受け取る感度や実力が無ければ、それは極意とはならず、貴重な学びの瞬間をただただ無駄にしてしまうのだと思いました。
また、検証において、自主稽古における気付きもありました。検証において相手を押せなくなると、どんどん自分の動きや相手のことを意識してしまいました。そして、集中力が無くなり、さっきまでどのように木刀を振って相手を押していたのか全くわからなくなりました。相手を意識しないためにはどうすればいいかを考え、一人で自主稽古をしているつもりで木刀を振ると、もう一度、意識せずに相手を押すことができました。その時に、頭の考えや意識では、相手を意識せず自分の内面に集中することはできず、身体動作を通してでなければ、集中し身体を無意識化することはできないのだと思いました。
今号の「道」で、宇城先生と名嘉睦稔氏との対談において、睦稔氏が版画を彫る時のモードに入ると握られている腕が動かせた、というお話を拝見いたしました。また、以前の実践塾においても、塾生の方が仕事に集中している状態で技をかけると相手を投げられる事なども見せて頂いておりました。どんな時も一瞬でモードを変えられるくらいに毎日の自主稽古を積み上げていなければ、自主稽古のしている意味が全く無いのだと思いました。また、いくら自主稽古をしても、意識や頭で考えたり、力で型をしていたら、集中力を身に付けたり、身体に変化を起こすことはできないと思いました。
その時に、宇城先生が以前仰った「武術は、量から質ではなく、質から量に変えないといけない」という言葉を思い出しました。今回の「刀の手の内」の稽古において、武術における身体の変化は本当に僅かな違いであり、意識や力ですぐに消えてしまう事を教えて頂きました。
宇城先生から気を通して頂いた時や、合宿での感覚を、自宅で再現しようとすると、ほんの僅かな身体の違いを思い出そうとする為、自然と自分の身体に集中していきます。そして、何回も「違うな」「違うな」と型を繰り返していると、自然と稽古の量が増えていきます。しかし、単に稽古の量を増やしたからといって、スポーツ的な筋力トレーニングのように、回数や量が直接的に成果に繋がることもありません。頭や意識で考えず、真剣に自然体で型を繰り返していくことが、自主稽古の内容を量から質、そして質から量へと変えていけるのではないかと思いました。
また、宇城先生が、他の方の指導をしているのを見させて頂いた際、「できたと思ったら、できなくなる」と仰った言葉がとても印象に残りました。言葉で表せば「勝って兜の緒を締めろ」などの言葉が当てはまるかと思いますが、知識ではなく稽古という身体的訓練を通して、このような現象を学べることは本当にすごいことだと思いました。
私たちは、できたと思った瞬間に呼吸や心が止まり、頭や意識の状態に切り替わってしまいます。しかし、宇城先生の動きは、ひとつの技の終わりが次の技の始まりとなっており、呼吸や心が常に流れているように感じます。残る心と書く「残心」の意味についても改めて考えさせて頂きました。
普段の実践塾においても、ガッツポーズをすると呼吸が止まり身体が浮くことを教えて頂いております。しかし、ガッツポーズをしなくても、ほんの少しの自分の心の変化で身体が変化し、武術としては使えない身体になってしまうことを教えて頂きました。
武道においてガッツポーズを戒めることは、浮ついた心や慢心を戒めるという意味だけでなく、高度に技術的な法則がそこにはあるのだと思いました。また、ガッツポーズを戒め残心を言葉で説明する現代武道界のなかに、宇城先生のように、その本当の本質に気付き、説明、実証できる方はほとんどいないのではないかと思いました。
勝利者がガッツポーズをして場が盛り上がるというのは、スポーツの娯楽や興業としての側面から見れば、その目的は果たされているかもしれません。しかし、武術とスポーツを比較すると、その本質も、目的も、活かされる場やその効果も全く違うものだと改めて感じました。
■東京 会社員 K.M 宇城先生、世間がコロナで不安定な中、合宿に参加させていただき、また、直接のご指導を受けさせていただきありがとうございました。直前まで、本当に合宿が開催できるかと思うほどコロナの影響にて社会が揺れており、通常通り開催いただき、稽古させていただけたことが、常識ではあり得ないことだと思っています。 今回の合宿の稽古の中で、宇城先生がご説明してくださったブラックホールの仕組みと影響が、自分と稽古相手に起きることを木刀を使用した対人稽古の中で感じる瞬間がありました。自分が剣を持ち、その剣を相手に握ってもらい、相手を動かす稽古です。ブラックホールの様に周りを吸い込むと自分の中に芯のようなものができ、自分と調和した後に相手を包み込むようにすると、相手を包み込めたと感じる瞬間があり、同時に自分の身体の中にぽかっと穴が開いた様な感覚と同時に相手と一つになった感覚がありました。すると、全く抵抗なく相手を自由に動かすことが出来ました。 これは、稽古中に宇城先生が見せてくださったブラックホールの説明映像の中にあった反対側に同じブラックホールが作られる事象が、自分の身体を通して相手側に同じ感覚が生成される事象と同じではないのかと思いました。しかし、少しでも自分が押そうと思ったり、姿勢が崩れるとすぐに、相手と衝突してしまいます。 また、動作の前の心の状態を真剣にすることが重要でした。宇城先生が稽古の中で教えてくださる相手の手足は刃物と思うことの必要性が分かりました。自分に真剣な状態を身体に持たなければ、調和できる力は発動しない。相手を包み込むことが出来たと思った瞬間に調和が発生し、相手を動かすことができたことは、「心の発動が技となる」とはこのことではないかと思った経験でした。 さらに、今回の大きな学びの一つは、手の内、剣の握り方を学ぶことが出来たことです。宇城先生が教えてくださった様に気の出口を塞がぬように剣を挟むように握れた時、相手との衝突は消えました。一人稽古では、今回得られた感覚、自分の中心に向かって自分と調和し、真剣な状態を身体に再現する。そして相手を包み込み調和し一つとなる経験を再現しながら、型に取り入れて参ります。本当に心の発動が技となるのだと感動と驚きで一杯です。 また、このことが日常において常に起きている。自分の心の在り方が相手、周りに影響を与えている。自分で今の環境を作り出していて、その今の状況が未来を創っていく、良い未来の想像は今の自分の在り方にある。今までの宇城先生の教えが繋がってきます。全ては今という時間に鍵がある。 私は、宇城先生の空手、教えを通して未知の世界を学ばせていただいています。ほとんどの人が見ることも知ることも無い世界、5次元の世界。あまりの大きさに自分が学んでいることを表現する言葉が見つからず、また、理解しきれていないのだと感じています。自分の身体にある神秘、真実に近づけるように宇城先生の教えを学ばせていただき、変化を起こして参ります。 宇城先生、これからもご指導を程、どうぞよろしくお願いいたします。
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