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東京実践塾 感想文 2021年7月~ 2021年9月




 

C.N 自営業 千葉


毎月大変貴重な時間をいただいていることに感謝しています。


 先生に出会えたことにより、一生かけても出会えなかった世界を示していただいています。ありがとうございます。未だ不安定な世の中の状況が続き、人との交流も途絶えがちな状態でもあり、仕事などでもテレワークなどが普通になってきています。


 画面を通したコミュニケーションは所詮はバーチャルであり危険である、というような内容を先生が仰っていましたが、本当にその通りであると思いました。人間とは人との間、間の事というお話もありましたが、やはり実際に会う中で感じる体温や雰囲気というものや、そこに至る経緯や時間など画面からは伝わらない事が膨大にあると思いますが、その様なことを感じたり考えたりすることすらなくなり、画面でもリアルと変わらないと感じるようになってしまったら本当に怖い事であると思います。


 そんな中、先生は以前と変わらず私たちの前に立ち続けてくれています。その姿はまさに今の中に未来があるというのでしょうか、やはり心こそが豊かな未来に繋がるという事を先生のお姿からあらためていただいています。


 剣のご指導をいただくようになりましたが、自分の健常者の病気であると思いますが、剣の稽古と空手の稽古がバラバラになってしまうと感じました。双方が両輪になるように気づきを与え合うようになっていかなければいけないと思うのですが、油断をするとフィードバックがかからないような状態になってしまいがちです。


 そこには自分の勝手な思い込みや勘違いというものが含まれていると思います。それが我であり邪魔するものでもあると思います。先生を見て考えて身体に落とすのではなく、見たまま動く、自分の解釈など必要ないのだからそのまま素直に、頭はわからなくても動いているというようなスピードをもって稽古をしなければならないと感じました。


 身体で考えるということは止まって悩んでいる暇はない、動きの中で潔く表現していく、出来て初めてなぜ出来たのかを考えるぐらいなのではないかと思いました。


 今回は書きたいことがあるにも関わらず言葉にのせる事がうまくいきませんでした。これも自分の至らなさであると反省し、あらためて日々の生活と稽古が繋がっていくように精進していきたいと思います。


 今後ともご指導の程宜しくお願いいたします。


 

T.K 会社員 茨木


 7月から9月の実践塾稽古を指導して頂き有難うございました。


 今回もコロナ禍の制約のある中、実践塾を開催し、稽古指導して下さることに大変感謝します。


 最近は剣の稽古の機会も多く、指導を受けた剣の握り・構え・型を考察することで空手の姿勢、構え、目付け等にフィードバックし、技の向上へ繋げられるよう稽古を深めていくことが大事と考えています。


 力任せでない剣の振りを知ることで、空手の突きがその場だけの突きになっていないか注意するようになりました。昔稽古していたような単に的に向っていくだけ、点を起点として線を描くだけのベクトル的な突き、それは周囲を変えることのない、独りよがりな突きだと思います。


 周囲を変える、雰囲気を作る、点・線の動きでなく周囲の空気も巻き込んで、相手を圧する突き。そのためには筋力からくるパワフルな突きではなく、姿勢や心を正しく保ち、調和融合の気持ちを持って、相手を圧倒する突き、技だと思います。通常なら敵と相対した場合、そのような気持ちでは対峙できませんが、日本刀の抜群の切れ味を実際に先生が実証してくださることで疑いなく日本刀(自身の技)を信じられ、調和しようとして相手の前に立つことができます。相手に入り、相手を難なく制することが可能な技を繰り出せる境地を先生の氣を通して実際に体験できていることは改めて貴重な経験であり、凄いことだと思います。


 思い切りつく突きと調和融合の気持ちを持ってフッとつく突きの違い、検証を通して、今更ながら力任せの突きを盲目的に信用していた自分に気付きました。日本刀の振りは力任せでなく、重い日本刀を技により振ることで日本刀の切れ味が出てくるので、空手の突きもそこに近づけるように気をつけて稽古したいと思います。


 夏の黒帯合宿も含め最近の実践塾稽古では具体的に一人稽古への実践例、ヒントが示され大変ありがたく、またそれを拾いきれない自分の愚かさ、実践に移せない怠慢さも痛感します。自分自身も50代半ばになり悠長に構えている年齢ではなくなりました。これからは1日1日を精進して、と書きたいところですがまずは毎週を無意味に過ごさぬように1週1週を自身を律して稽古鍛錬したいと思います。


 今年も残り2か月余りとなり実践塾稽古もあと数回となりましたが少しでも進歩成長して年の暮れを迎えたく思います。


 これからもご指導の程、宜しくお願いいたします。


 

Y.F 自営業 静岡


 この三カ月の稽古で感じた事ですが、これは毎回ですが、宇城空手の奥深い世界に自分がますます魅了されているというか、身体と、今まで頭で理解していた事が、合致してきているように感じます。その上で「宇城空手」を読み直してみると以前とは違った箇所に赤線を引く事になり、自分の宇城空手への見方、感じ方が変わってきているのをはっきりと感じました。


 基本、引手、肩の下げ、型の動作一つ一つ、そして呼吸。それらを全て、自分がいい加減に、やっていたのだと。それを一つ一つを型にはめ込んでいき、それがブレない、外れないように動けるようにしていく事が一人稽古なのだと。そのように思うようになってきました。


 これは10月の稽古ででしたが、先生の御身体を触らせて頂き、「身体の呼吸」を一触で感じさせて頂いたのですが、この際に、自分の力が全く抜けていない事、が本当によく分かりました。感じる事ができました。本当に先生の御身体はそこにあるのに、自分が触れているのに、そして今までも何回も何回も一触を受けているはずなのに、その事を自分は感じ取ることができていなかったのです。その一触を手掛かりに、型稽古、一人稽古をしていきたいと思います。


 また9月の稽古では、ナイファンチンの型で先生にご指導を頂きました。その際に、最初の手刀受けの時の引手が足らない事、手刀受けの腕が伸びてない事をご指摘頂き、まず、自分の空手の引手が全て甘い状態だったこと、そして、腕がやはり、筋肉で曲がっている事を気づく事ができました。腕は外見は伸びているようでも、内面が伸びていない事、そして年齢を重ね、筋肉が縮み、腕を伸ばすには相当自分で伸ばそうとしないと伸びない事が分かりました。


 子供の型がきれいなのは、内面も外面と同時に伸びているからなんだと、この事により気づく事ができました。まさに先生が何度も何度も仰っている、内面と外面の一致という事はそのような事を言うのだと。それを頭でなく、身体を通して感じる事ができました。それから、その感覚を基本、型、全てに落とし込んで一人稽古していく事ができると思い、一人稽古の時間が変わってきました。時間が活きてきたように思います。


 先生が仰っていた「一つが分かると様々なところに繋がっていく」というお言葉が、まだ全てではありませんが、こういう事か!と分かってきました。その感動は体の細胞がウズウズしてくるような、早く身体を動かして、やってみたい、という気持ちになってきます。


 そして身体の感覚が鋭くなると、頭も冴えてきて、目がはっきりとしてくるように感じます。これはより良い人生の時間を生きる、という事に繋がり、今の世の中の嘘や欺瞞、いい加減に騙されない、流されなくなると感じ、改めて、宇城空手とは、「人間として」「人として」の性能を高める、まさに潜在能力を引き出すものなのだと、そのように感じました。


 剣の稽古では、剣により、気品、気位を自分の中に創っていくというお話があり、また柔からの剛、を培っていく事が大事なのだと思いました。剣を持つと、やはり物があるので姿勢が安定するのと、剣を振り下ろした際に、身体の呼吸が止まってしまうので、そうならないように相手に入る事、など剣と空手の共通している理があり、またそのように感じられるように御指導して下さっている先生の御指導のレベルの高さ、御心に、自分は本当に物凄い事を、物凄い環境で学ばさせて頂いているのだと。本当にそう感じます。


 自分も今年、審査を受けさせて頂く事になり、先生が、「弐段、参段で自分で稽古に面白さを見出せないとあとは辛くなるだけだ」と仰っていた事を思いました。確かに何も分からずに一人稽古をしていると、本当に合っているのだろうか、間違った方向へいってしまっているのではないかと不安になりますが、そのようなまさに「頂点の見えている試行錯誤」があるから、そのような気持ちがあるからこそ、自らを見つめ、謙虚になり、素直になる、ならざるを得ないのだと思います。


 また今の視点で先生の過去の御著書を読み直すと、全て、答えが書いてある。当時の自分は何も分かっていなかった、そのような器も実力も努力も無かったのだという事が本当に良く分かり、そして謙虚にならざるを得ません。「宇城空手」は勿論、「型は美しく技は心で」も、過去の御著書、全てが金言、宝の宝庫であり、珠玉の言葉ばかりであると思います。それは空手は勿論ですが、宇城空手の修行を通して得られる気づきが、自分を人間として大きく成長させ、人生を大きく好転させるものだとはっきりと身体を通して感じる事ができるからだと思います。


 そして宇城空手が、今までの日本武術、先人達の魂を受け継いでいる唯一無二の存在であり、集大成であり頂点であるという事、その歴史の積み重ね重さを肌で感じ、そこへ導いてくれる師に出会えた事には本当に心からの感謝しかありません。それを受け継ぎ、継承していこうと思うと、その重み、に手が震えます。しかし、稽古は本当に奥深く、そして自らの変化、進歩成長する事がこれほどまでに未来に希望が持てるものだという事を実感し、ただひたすらに稽古していく事が、一番大事な事なのではと思います。


 今年の稽古もあと僅かになってしまいました。限られた時間、それを自分がどのように過ごしていくのか、妥協をどれだけ小さくする事ができるのか。


 この三カ月の稽古でも、今までにないくらいの多くの、そして深い気づきがありました。気づかせて頂くことができました。


 これから更に更に、宇城空手の修行に邁進して参る所存です。

 引き続き、御指導、御鞭撻の程、何卒宜しくお願い申し上げます。


 

K.S 会社員 東京


 宇城先生、いつもご指導ありがとうございます。コロナ禍にも関わらず先生が東京まで来てくださり毎月ご指導いただいています。我々が先生のもとへ伺い稽古いただくことが本来の形ですが、先生のお心遣いに心より感謝申し上げます。


 稽古では剣の型を2つご教示いただきました。先生は常に実践ありきでやってみせてくださります。まずは先生が型の手本を示してくださりました。そのお姿・技に引き込まれていくような感覚がわいてきました。空手だけでなく剣の道もとてつもなく極められた先生に日本人の誇りや勇気をいただく一方、社会や政治、メディアに目を向けるとその差に愕然とします。


 そんな先生に学び、世の中の現状に危機感を抱いている自分自身のあり方が問われている気がしました。何をしなければならないのか、どう行動を起こすのか、いつも警鐘を鳴らしていただいている先生の言葉が毎回心に刺さってきます。


 日本はコロナが蔓延しより一層の格差社会になってきました。先日稽古の講義では空想の勝ち組はいつか堕落する、弱いものに寄り添う必要があるということをご指導いただきました。人間にはとんでもない潜在能力がすでに備わっているということは常に先生に学んでいます。自分さえという心から人に寄り添う心を持つことでその能力は開花される。


 精神論ではなく常に実践を交えて身体で変化を感じることができるので否応なしに真実が見えてきます。先日も通常では投げが効かないが困っている人に声をかけてからであれば2人に増えたとしても簡単に投げが極りました。これまでの力の概念を180度変えなければならないと今回も身体で学びました。


 コロナが収まりつつありますが、第6波も懸念されます。また別の感染症も来るかもしれない。何より日本は地震大国であり自然災害が多い国です。地球に大自然に生かされている人間にはどうすることもできない、受け入れるしかない現実があります。先生は謙虚に人の心に寄り添う生き方を常に示してくださります。


 先日の稽古で一生の大切にしたい言葉をいただきました。「孫子の兵法では敵を知り、己をしれば百戦危うからずという言葉があるが日本人はそうではない。額に矢が刺さろうが真正面から向かっていく。背中に矢が刺さることはない」との言葉をいただきました。常に誠実で正々堂々と向き合う姿が日本人である。


 先生の生き様から存分にそのことを感じています。「武術の生き方をするかしないか、上手い下手は関係ない」との勇気が湧く言葉もいただきました。まさに私に問われている気がしました。先生にいただいたエネルギーを存分に、社会で一人革命という形で実践に移していく。仕事をこなすのではなく常に時代を変えていくという情熱を持ち日々精進して参ります。


 

N.T 会社員 千葉


 現在、コロナ感染は減少してきておりますが、今夏の感染者数がピークの際も、実践塾を開催して頂き、本当にありがとうございました。


 日常では止むを得ずマスクをしなくてはならない時間が多い中、実践塾の稽古ではマスクをすることも無く、大変清々しい気持ちで稽古をする事が出来ました。普段、マスクをしているだけで目に膜が掛かった様な違和感を感じ、人が密集する場所以外では出来るだけマスクを外すようにしています。この先もしばらくはこの状況が続くでしょうし、その中でコロナ差別は益々増えていくと思います。マスクにより身体が弱くなる事も実証により教えていただきました。日常生活を送る上で人と衝突することなく、調和することは大切ですが、気持ちはブレずに持ち続けていきたいと思います。


 稽古の中では、筋力による力 < 必死の力 < 気の力 を実際に刃物を使った実証も解説いただきました。脳で考えた行動が身体で感じたままの行動を如何に邪魔してしまうのか、スピードを遅くしてしまうのか。脳で考えた行動は正に意識での行動で居着きを生み、スピードは遅く、身体で感じての行動は、無意識の行動で速いと言うことです。


 別の日の稽古では困っている人の前を素通りした時の身体は弱く、一言声を掛けた時の身体は強くなることも体験いたしました。しかし気持ちのない声を掛けた時は弱くなり、相手を親身に思った行動でないと意味が無いと言う事も実感いたしました。椅子に座ろうとする寸前に後ろの人が椅子を引く実証では、本当に信頼しているか否かで身体の力の差が全く違うと言うことを教えていただきました。


 これらの実証は先生の信条として稽古中にお話しいただき、またコラムにも掲載されました心とは裏切らないこと、愛とは信頼することと繋がり、身体を通じて心を成長させることの大切さを改めて実感させていただきました。


 稽古で先生の気により体感した感覚のまま日常に戻れば良いのですが、時間が過ぎると再び常識に覆われた現実世界に戻り、無力な自分を再認識する繰り返しであります。そこで一人稽古の大切さを感じ、先生から頂いた気を消さない様に、稽古を続け、次の実践塾でまた気の灯火を大きくしていただく。この繰り返しが自分の成長に繋がると思います。


 今後ともご指導のほど宜しくお願いいたします。


 

D.S 会社員 千葉 


 宇城先生、榎本先生、本期間も素晴らしい御指導、誠に有難うございました。本期間の稽古もまた、学び多く充実したものでした。


 7〜9月の稽古では、型の分解や応用を初めて教わりました。これまでも先生のDVDや御著書の解説を頼りに、自分なりに練習をしておりましたが、やはり実際に先生、諸先輩方に稽古をつけて頂いた後では、日頃の練習の真剣さが全く変わってきました。


 例えば、三戦の転身を応用した投げでは、相手に心を残したままひきつけて、瞬間で転身し、肘打ちと投げが同時に決まらなければなりません。しかし型の分解・応用を教えて頂く以前はそのような事を全く意識せず、ただ漫然と中身のない型を行っていたのだと痛感しました。技を施す時の緊張感や間のシビアさ、それを実感できる稽古の重要性が、型の分解・応用を通して身に沁みました。


 また、そもそもの型自体も、間違いだらけの動きをしていた事を先輩方に指摘して頂き、自分の下手さ加減が良く分かりました。中でも三戦の初動に関する御指導は、本当に有難いものでした。結び立ちから踵を押し広げる際は頭を上げず、顎を引き、首を真っ直ぐしたまま沈み込むように広げる。正しい姿勢をとれると型が重くなるので、その重さを最後まで切らさないように練習をする。重さを切らさず動くには、膝を柔らかく使って腰を落とす。この御指導が道標となり、日頃の練習で少しずつ、どの動きが間違っているのかを、身体の重さで判断できるようになってきました。


 こうした御指導を受けながらつくづく感じたことは、実践塾の稽古における、場の空気の清浄さでした。諸先輩方を私が評すのは大変恐れ多いことですが、どなたにも後輩を見下すところが全くなく、熱意をもって丁寧に御指導下さいました。稽古後の質問にも快く答えてくださり、過去の宇城先生の重要な御指導について、詳細に説明して頂いたこともありました。


 セミナー生相手だからと、いい加減に対応されたことは一度もありません。これほどまでに、直感的に信頼できる方が集まった組織というのを、私は知りません。皆等しく、宇城先生という素晴らしい師に学ぼうという思いがあり、皆で稽古した後はとても清々しい気持ちになります。こういう空気の場では、学ぼう、成長しようという気持ちが自然と湧いてきます。


 以前、宇城先生が、道塾や実践塾で学ぶ仲間は宝物になると仰っていた事がありましたが、本当にその通りだと思います。なんの損得勘定もなく学びと向上心で結びついた仲間が居るというだけで、日々を生きる勇気が出てくるのだということを初めて知りました。そして改めて、そうした場を作って下さった宇城先生に心から感謝の念を抱きました。日本が本来どうあるべきかという姿が、道塾や実践塾に示されているのだと思います。


 本期間も様々な実証を通して武術の奥深さを体験させて頂きましたが、中でも印象深かったのは、一列に並んだ数人の列を一人が押す検証を、3通りの異なる条件下で試したときのものです。まず筋力を使って押す場合、押す側は一人ですから列は全く崩れません。次に押す側が刃物を持つと、列を作る人には危機感から必死さが出て、逃れるため後ろに後退しようとするので、結果として押す側は列を押し崩せるようになります。この時、列は横からも簡単に押して崩すことができます。最後に、押す側が気を通して押す場合、列は後方に簡単に押されますが、横からの力に対しては強く、負けないようになります。


 押す側が刃物を持った際に列が崩れるのは、いわゆる火事場の馬鹿力によるものだということで、一瞬強い力が発揮されるが脆い印象です。一方、気により列を押した場合は、押される側を観念させながら、同時に強くして守っているため横から押されても崩れない、と解説をして頂きました。列を後ろに押せるか押せないかという事だけを基準にすると、刃物でも気でも結果は同じです。しかし、横からの力という新たな視点を加えることで、実は両者は全く次元が異なるものだということが明らかになりました。


 私は、その現象そのものにも感動しましたが、何より武術の奥深さ、気高さをこうも明快に形にして伝えてくださる、宇城先生の御指導の素晴らしさにとても感動致しました。まさに唯一無二の「気による指導」、理屈抜きで凄みが伝わり、だからこそ指導を受けた私の人生の質もどんどん変わってゆきます。真の指導とはどういうものかを体験させて頂き、本当に感謝の念に堪えません。


 先生の御講義の中で、「心とは裏切らない事」「愛とは信頼する事」という言葉を伝えて頂きました。とても美しく、力強い言葉だと思いました。今の自分は、自分を裏切らず、信頼することができているとはとても言えません。日々小さなことで、自分を裏切っているように思います。実はその裏切りにより心を自傷し、信頼できない自分を作り、結果として己に愛情を持てない。これでは他尊自信など夢の話です。まずは、自分を信頼できる人間に仕立て上げることが成長の、一人革命の近道であると、先生のお言葉から学ばせて頂きました。


 実践塾での稽古は、私の足元も目指すべき場所も、同時に照らしてくれます。それが、先生への絶対の信頼につながっています。月に一度の稽古があるからこそ、希望をもって日々を過ごすことができています。宇城空手との出会いが私に与えてくれたもの全てに、感謝します。


 より一層精進して参りますので、宇城先生、榎本先生、諸先輩方、今後とも御指導の程宜しくお願い致します。


 

M.N 会社員 神奈川


宇城先生。


 いつも大変素晴らしい実践塾の稽古に参加させて頂き誠にありがとうございます。


 宇城先生は、実践塾の稽古において、様々なお話や、他では到底体験できない実証、検証を通し、本物の武術への道を、私たちに辛抱強く教え諭して下さっております。


 実践塾の稽古に参加させて頂くほど、自分の身体に染み付いた癖や、意識で動こうとする部分体の自分に気づく機会を得させて頂けます。数年前までの自分は、何が分からないかも分からない状態でした。しかし、今までの自分と比較すれば、稽古において、できないこと、分からないことが少しずつ明確になり、その頻度も増えてきたように感じています。


 以前、宇城先生が仰いました「自分が下手なのを自分で気づかんか?」「癖は他人から言われたのでは本当の意味では直らない。自分で気づかないと直らない」という言葉を今になってとても深く思い出します。


 昨年から宇城先生のご好意により、定期的に木刀を使った稽古や型を教えて頂いております。先日自主稽古において木刀の振りを自分で動画に撮り、宇城先生の動画と比較させて頂きました。木刀を振り上げた時の宇城先生の剣先は、必ず同じ箇所で止まり地面とほぼ平行でした。一方、自分の木刀の剣先はいつも下がっており、振りかぶるように力で木刀を振っていました。


 しかし、何度も動画を撮って比較させて頂くと、剣先どころか全ての自分の動きがおかしいことに気づきました。宇城先生の振り方に比べ、手を上げる位置が高すぎる、そのことによって手と脇が全く締まっていない。首も胸も腹も直線になっておらず、不必要なところで常に動いている。そもそも構えた時点で身体が曲がっていて、肩に力が入っている。


 剣先が下がっているどころの問題ではなく、まともに出来ているところが一つもなく、自分の木刀の振り方は全て間違っていると痛感致しました。外面がここまで滅茶苦茶な状態で、相手に入るつもりで稽古をしていた自分が情けなくなりました。


 その後も、何とか首、胸、腰だけでも動かさないように稽古をしてみましたが、何回振っても癖が直りませんでした。その時に、以前の稽古において検証させて頂いた、正しい礼の仕方を思い出しました。正しい礼は、正面の一点を集中し目で捉え、頭の先から指先、足までを真っ直ぐにして、正面、下、正面とパッ、パッ、と余計な動作をせずに、頭を下げないといけないと教えて頂きました。


 宇城先生が仰いました「目線は一点を集中して一切動かしてはいけない」という言葉を思い返し、正面の一点から目を逸らさずに木刀を振ると身体の癖が少なくなっていきました。目を一点から動かさないように集中すればするほど、身体のブレが少なくなっていき、反対に目がブレた時の動画を後で見ると、その時は身体に不必要な癖がでていました。


 その後で、サンチンの型をやると、自分の目線が下に下がったり、上に向いたり、どこを向いているか分からない状態で型をしていることが分かりました。前後左右に瞬発力で動くサンチン以外の型に至っては、まともに目を一点に集中している時が全くなく、自分の型が到底武術の型と呼べるようなものではないと分かりました。五つの型において、最初から最後まで目を一点に集中し、身体に癖や力を一切出さずに型を行えるようになるのに、何年かかるのか気が遠くなるような思いがしました。


 以前の稽古において、宇城先生が「純鉄は電気抵抗がなく真っ直ぐに計測できる。人間も同じで、余計な抵抗や癖があるから疲れる。身体が統一体になれば疲れない身体になる」と仰いました。


 宇城先生の型や組手を拝見させて頂く度に、先生の動き一つ一つに無駄な動きが全くないことを深く感じます。そして、相手や空間と一つになり、動きの始まりから終わりまでが一つの流れになり、瞬発力で動かれる時は、動きに「一」と「ゼロ」しかなく、スポーツ的なスピードと武術的な瞬発力が全く異質なものであると感嘆致します。


 前回の稽古において、宇城先生が組手をされる際、先生の背中に手を触れさせて頂きました。宇城先生の身体は動く前と後で全く変化がなく、本当に驚きました。普段拝見させて頂いている、相手を一瞬で制してしまう爆発力のある先生の動きと、実際に触れさせて頂いた時の先生の身体の静寂さは、私の技に対する考えや先入観とは全くかけ離れたものでした。


 宇城先生が仰いました「繊細さと大胆さを兼ね備えないといけない」という言葉が、まさに身体で実現されておりました。針の穴に糸を通すような繊細さと、一瞬でとてつもない威力、瞬発力、貫通力を爆発させる大胆さが、完全に一つとなっていました。宇城先生の動きは、全てが「一」と「ゼロ」で動かれており、無駄なものが一切無い状態であると感じさせて頂きました。


 先日、以前「道」において宇城先生と対談された、井口潔先生のご著書を読ませて頂きました。そのなかに、「「正しい」とはどういうことか。一の下に止まるとかいてあるではないか。「正」とは一線の規範に止まること」と書かれておりました。それを読んだ時、これはまさに宇城先生の動きのことだと思いました。正しい型とは、一切の癖や無駄が無い、「一」で止まる型が、正しい型なのだと納得しました。


 以前、高槻道場での子供の稽古動画を拝見させて頂きました。宇城先生の指導のもと、竹刀を振っている子供の動きは、まさに宇城先生の動きと同じであると感じました。目や動きに無駄な癖、不純なものが全くありませんでした。そして、宇城先生の動きと同様に、すべての動きが「一」と「ゼロ」で動いており、時間の流れ方がスポーツ的なスピードとはまるで違うことが明らかでした。


 井口先生のご著書には「人は10歳までに大脳辺縁系(古い脳)が司る知恵、感性、生きる力が発達する。そして10歳からは大脳新皮質系(新しい脳)が司る知識、知性、生きる手段が発達する」「江戸期の教育は、幼年期に正しい感性、人間性を育て、その上に論理的な社会性、知性を教えた。そのため普通の市民でも桁外れた人間力をもっていた」と書いてありました。


 動画において宇城先生が子供に仰いました「国会議員になっても、医者になっても、なにをしてもとんでもない力を発揮する人になる」という言葉は、このことを言われたのだと思いました。


 また、古い脳と新しい脳が衝突、対立する現象の一つが思春期であると以前に聞いたことがありました。宇城先生が「子供は統一体で人を押せる。しかし、中学、高校と進むにつれて徐々に統一体でなくなり、大学生、社会人になる頃には部分体になってしまう」というお話の通りだと思いました。本来であれば、古い脳と新しい脳は両立して一つになっていなければならないのに、私たち現代の大人の脳は、新しい脳が古い脳を完全に潰しており、知識、知性、手段(ノウハウ)でしか物事を学ぶことができなくなっているのだと思いました。


 仏教に三転十二行相という言葉があることを知りました。三転とは、示転(知って実践)、勧転(理解して実践)、証転(体得して実践)の三段階があるとのことでした。これを聞いた時、宇城先生の仰いました「学ぶ、学んだら次は覚える、そして覚えたら真似る」「技は写すしかない」「武術における術技の無意識化とは、最初に意識して覚えた技を、技から術への段階で無意識化するというもの」などの言葉と全く同じだと思いました。


 私たちは、長年、宇城先生から教えを頂き、どんなに頭で知識を得、理解しても、最後の証転である身体で体得することがどうしてもできません。一方、素直な子供たちは、知識や理屈を飛び越えて、瞬時に宇城先生の技を体得してしまいます。


 この感想文で書かせて頂いたことも全ては知識や理屈です。知識や体験でも低いレベルで自己を多少変えることはできるかもしれません。しかし、本物の武術の技を自得するためには、最終的には、頭ではなく自身の身体をもって、自分の癖を解くことでしか不可能なのだと思いました。


 そのためには、前回の稽古において宇城先生の仰いました「ひたすら稽古をするしかない」という言葉の通り、理屈や我が出なくなるまで、ひたすら稽古に稽古を重ねていくしかないのだと思いました。




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