第36回 東京実践塾合宿 感想文
■K.U 会社員 福島
宇城先生、合宿でのご指導のほど誠にありがとうございました。先生と宇城空手を共に学ぶ仲間と過ごす時間は何事に変えられない貴重な時間であることを改めて感じました。先生からいただいた気により心と体がリフレッシュされております。この素晴らしい状況を崩してしまうのも自分であることを肝に銘じ、自分自身を崩さないよう教えていただいた手を差し伸べることを実践してまいります。
合宿では細胞のスピードということをご指導いただきました。手が伸びる、縮むという実体験などを通じて宇城空手の世界を体験させていただきました。先生がおっしゃるとおり、まさにそのスピードは他に体験できないものです。スピードというよりは一瞬で変化する。瞬きしたら別の世界に変っているような感覚です。そのスピードの世界では境界がない、すべてが調和した世界であることを感じました。
このような今までの世界とはまったく別の世界があること、まさに希望です。悩みや苦しみは自分自身が作り出したものであり、全てに調和する世界では自らを縛るものから解放され、今までに感じたことがない幸せやエネルギーを得ることができると感じます。自分が変わることで世界が違って見える。イメージではなく現実にその世界があること。そしてそのような世界に向かうための道が宇城空手であるなら、空手、武道という概念も大きく変わっていくのだと思います。宇城空手を修行するためには凝り固まった間違った空手、武道という概念を本当に捨て去らない限り何も始まらないのだと思いました。
今回の合宿では榎本師範に初日にご指導をいただきました。榎本師範にはその前の週に師範稽古会にてご指導をいただいたばかりでしたが、また、合宿では奥の深いご指導をしていただきました。師範稽古会ではクーサンクーを中心に相手に入る角度ということを型と分解を通じてご指導をいただきました。今回の合宿では角度など関係ない、一瞬で無力化するという技、術を体験させていただきました。型と分解という稽古において無限の奥の深さ、技の深さがあることを体験させていただきました。日々進化されている師範には一週間という時間でも、私などの一週間とはまったく違う時間軸の中で変化されているのだと思いました。
二日目は指導をさせていただく機会をいただき、感謝いたします。改めて理屈ではなく技で指導することの難しさを痛感いたしました。型や分解など形は教えられてもできなければ形骸化されたものしか伝えられない。真に生きた技を指導するためには自らが変わらならなければならない。先生を見て自らが走り、その中で気づいたこと、自分が変わったと思うことを伝えるしかないと思いました。自らが変わることに集中していきたいと思います。
今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
■N.S 会社員 神奈川
今回の合宿では、初めに宇城先生から具体的に目に見える形として細胞のスピードがどれほど早いのかをご指導いただきました。
机の上に手の甲を出して座る塾生に対して、先生がナイフを刺そうとする動作を行いました。その塾生を先頭に連なった長い列をつくり、私も列に加わり前の人の肩に触れていましたが、先生がナイフを刺そうとした瞬間、「あっ!」と意識したときにはもう列の最後尾まで細胞の反応が伝達していました。細胞の反応は、手の甲を出している塾生を通じて列の最後尾まで一瞬にして届きそのスピードの速さを感じました。先生がナイフを刺そうとした瞬間に、細胞はその情報をキャッチし、一変に全体へと伝播していきました。
また、先生の気でナイフを刺そうとすると今度は一瞬にして身体が強くなり、その強さもまた瞬時に全体へと伝播しました。まさに一瞬なのですが、その「一瞬」という言葉ですら遅いのではないかと感じるほど細胞の桁違いのスピードを体感させて頂きました。この細胞のスピードからしたら私達が従来の常識として捉えている身体動作(頭の命令での動きや意識・スポーツ・筋肉)のスピードがどれほど遅いのかを痛感致しました。細胞のスピードに対して、筋肉のスピードがどう足掻こうが敵うわけがないとあらためて認識致しました。
組手で先生に突きにいくときも、気づいたらやられている、気づいたら投げられている自分がいましたが、先生が常に実証してくださる気や細胞のスピードと自身のスピード(頭の命令→筋肉)では、全く次元が違うのに先生に突きに行っている自分が違う視点から見えたように思います。
細胞のスピードを具体的に誰もが分かりやすい目に見える形としてご指導いただき、私達に気づかせるため先生がどれほど次元を下りてご指導下さっているのかを考えさせられました。
宇城先生は相手が突きにくる動きはストップモーションのように見えると表現されますが、先生から見ればスポーツの世界は「話にならない」次元であり、これが勝負の世界であれば本来、先生と立ち合うことも許されないのだと思いました。先生は私達に気づかせるため敢えて手を取ってくださいますが江戸時代などの剣の世界では、全く次元の違う人と立ち会った際、自身がどう足掻こうが歯が立たないこと、同じ舞台に立つことすら許されないことを察して「参りました」と自ら身を引いていた。
しかし現代のスポーツの次元は身を弁えることも分からず「やってみなければわからない」といったバーチャルな後手の発想であり、身体との会話が皆無のような仕組みになっているように思いました。それほど私達、現代人の人間としての次元が下がってしまっていることを痛感致しました。
また、グループ分けの稽古では先輩よりサンチン、ナイファンチンを中心に指導していただきました。特に分解組手での姿勢が崩れることに注意していただき、相手の突きの影響を受け自身の姿勢がすぐに崩れることを指摘してくださいました。日常生活や仕事でも相手の影響を受け、自分の姿勢が崩れていることに気づかされました。姿勢が崩れると視野が狭まり、ベクトルが生まれ、力が一方向へとしかいかず、そのほかは隙だらけの状態になっていることを感じました。そのときは呼吸も止まってしまいます。
塾生全員が触れている状態で、先生がその中心で自由自在に動かれたり、回転されるときがありますが、あの時など全くベクトルを感じることもなくエネルギーが全体へと広がっていきます。先生に触れているときの印象は、どこか一方向に力が偏るようなことも一切無く大きなエネルギーを前に為す術がありません。
先生に気を通していただくときは、自身が開放されたような感覚で目にも集中力が不思議とでてきますが、あのときの感覚を問いかけながら稽古をしていかなくてはいけないと思いました。分解組手では、相手を前にした途端にすぐに今までの自分の動きが出て、相手と同じ時間で対処してるため衝突してしまいます。これを一生続けても永遠に入れない。まずは自身の姿勢を崩さないよう日常から意識して稽古していきます。
また自分の突きが全く効かないことを合宿を通して気づかされ、課題にもなりました。私の突きは、相手に向かって「ただ突いているだけ」、「格好を装っているだけ」の突きになってしまっていると感じました。大事なことは、実際に使えるか、使えないかにあり、突きも当たれば実際に相手を一発で仕留めるような突きに練り上げていかなくてはならないと感じました。効かない突きをいくら出しても、戦いに終止符を打つ事はできません。
拓治師範の突きは、軽く突かれているにも関わらず吹き飛ばされてしまうほどの威力と身体を貫通する瞬発力は理屈抜きに身の危険を感じるほどです。それには真剣さや覚悟が重要なってくるのかと考えておりますが、念頭に稽古して参りたいと思います。
今回の合宿を通して自分がいかにバーチャルな思考で考え、行動していたかをあらためて教えていただいたように思います。なにより身体を通した事実が先であり、その奥に真実がある。日常に返り、自身が何かに気づいたときも、いつもそこに先生の明快な教えがあることに感謝しかありません。バーチャルの世界から脱して、実践で変わって参りたいと思います。
宇城先生、榎本師範、拓治師範、この度も貴重な合宿でのご指導誠にありがとうございました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
■T.T 自営業 福島
この度も、二日間に渡り世界に類のないご指導を賜りまして、誠にありがとうございました。今回の合宿でもたくさんのエネルギーを注いで頂きました。そして、人間の潜在能力の凄さ、身体の素晴らしさを改めて感じさせて頂きました。
今回の合宿では、身体がもつ速さ、細胞のスピードの速さを感じさせて頂きました。塾生が前の人の肩を触り一列に連なった状態で、先頭の人に対して先生がナイフを突き付けると、瞬間的に全員の細胞が逃げることを教えて頂きました。その際、自分も列に触れましたが、先生がナイフを突き付けた瞬間、一瞬で全員にその危機感が伝わるのを感じました。更に、先生が絶対に刺さないからと念を押してからやってみても、同様に細胞が逃げることを感じました。
つまり、身体はそれだけ感度が高く、逆に絶対に刺されないという頭での理解は、身体に対して何の役にも立たないということを感じました。今回、ナイフを突き付けるという分かり易い事例で教えて頂きましたが、それは、日常の仕事や人間関係においても、同様のことが起きているのだと思いました。
つまり、自分に嘘は言えないということだと思います。その自分の目の前にある状況に対して入っていくだけの術が無ければ、いくら頭で綺麗事を言ってみても、身体はその嘘を知っているということだと思います。
先生にご指導頂いている空手は、攻撃してくる相手から身を守るということのみならず、その自分の中にある嘘を無くす為のものでもあるのだと感じました。つまり、攻撃してくる相手に対して調和をとることができれば、それは、日常生活においても周りとの調和を生み、どのような場面においても、自分を信じ他人を尊重するという他尊自信の生き方に繋がるのだと思います。そしてその為には、そこに導いてくれる型を通して身体にある自分の癖を無くすことが大切なのだと感じました。
また、今回の合宿では、無級の塾生の指導をさせて頂きました。今まで何度も指導役を務めさせて頂いておりますが、改めて指導することの難しさを感じました。指導するにあたっては、まずはやって見せることを第一に考えました。言葉での指導は補助的なもので、実際にやって見せることが大切だと考えました。
ですが、やはり自分自身の実力不足故に、言葉での指導が多くなってしまったように思います。そして、言葉での指導になってしまうと、その受け取り方がその人自身の受け取り方になってしまう為、言ったそばから全く違う動きになってしまうこともあり、やはり、人の前に立って指導する以上は、自分に対しても技に対しても、もっともっと厳しさがなければならないことを感じました。
また、自分も普段は指導される側の立場ですが、指導される側の課題も感じました。一言で言えば、素直さと真剣さが無ければならないと思いました。あるセミナー生は、合宿の初めに型を見たとき、型がバラバラでまったく纏まりがなく多くの課題がある状態でしたが、その課題を一つ一つ指摘した際に、すぐにその場で修正し、なんとか良くなろうという気持ちが見られました。
自分自身の体験として、身体の癖はそう簡単に直るものではないと感じていますが、それもその人自身の素直さと真剣さによるのだと感じました。自分自身が先生や師範にご指導頂いた際、ご指摘頂いた課題に対して次回までに直そうと考えてしまうことがありますが、次回までではなく、その場で直す気概が無ければ、一向に上達はしないのだと感じました。
そして、夜の懇親会、二次会、三次会と、先生や両師範をはじめ、先輩や仲間たちと楽しい時間を過ごしました。先生のエネルギーに包まれた中で一緒に稽古をした皆さんと、互いに心地良い雰囲気で過ごせました。
宇城先生の空手は単に相手に勝つということではなく、無意識のうちに自分が出している空気までもより良くし、日常の生き方や過ごし方まで変えてくれるものだと思いました。相手との勝ち負けよりも、その自分が無意識のうちに出している雰囲気をより良くして下さることが、日常を生きていく上で大きな支えになっているのだと思います。
今回も素晴らしい合宿に参加させて頂きまして、誠にありがとうございました。
今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
■M.N 会社員 神奈川
宇城先生。
この度も大変すばらしい実践塾の稽古合宿に参加させて頂き誠にありがとうございました。
宇城先生の伝えて下さる型は、稽古をすればするほど自分の出来ていない課題が次々に出てきます。自分のたくさんある課題のうち、特に最近の稽古において何度やってもしっくりいかず、自分では全く直せずにいたのが、「拳の締め」と「型の極め」でした。
宇城先生は常々「気は指の先まで流れないといけない」と仰います。宇城先生の型を拝見させて頂くと、そのお言葉の通り、指の先から足の先までが一体となり、拳がとてつもない密度で締まっていることを感じます。そして、サンチンにおいては、呼吸と身体が完全に一致し、極めの瞬間は、一致した身体と呼吸がとてつもないエネルギーと共に鋳型に寸分違わずピッタリと嵌られているように感じます。
一方、自分が型をする時は、拳を締めようとすると、明らかに力で拳を握っていることが分かります。拳を握ろうとすればするほど手に意識がいってしまい、身体の他の部分もどんどん部分体になってしまいます。そして、身体の力を抜こうとするといつも拳が緩んで、型に極めや締りが全くないと自分で感じていました。
今回の合宿において、榎本師範から最初にご指摘頂いた言葉が、「型のとき拳がずっと緩んでいる。身体の動きも締まらずブレている」というお言葉でした。自分が出来ていないと常に感じていたことを的確にご指摘頂き、師範の型を見抜く力に改めて感嘆致しました。また、「手が緩むと力を抜きやすいやろ。でも拳を締めないとあかんで、型が締まらない」と仰られ、正に師範の言われる通りだと深く納得致しました。ご指摘を受けて、拳の緩みを直すのは今しかないと深く思いました。
また、稽古において、拳の締めだけでなく、手刀の締め方についても型を通し何度もご指摘頂きました。手刀の締めの凄さ、奥深さを一番感じさせて頂いたのが、パッサイの手刀受け三日月蹴りの分解組手をしている時でした。師範からご指摘頂いたことを念頭に、出来るだけ指先を伸ばした状態で手刀受けをし、三日月蹴り、肘当てをしていました。しかし、私が手刀受けをしたあと三日月蹴りをすると、相手がどんどん後ろに下がってしまい、蹴りや肘当てが当たりませんでした。
その時、師範が「手刀が伸びていない」と仰り、手刀を直して下さいました。自分ではこれ以上伸ばせないくらい指先を伸ばしているつもりでしたが、師範が手を添えると、手刀の指先がさらに伸びました。そして、五本の指がピッタリくっつき、指先が相手に触れていなくとも相手に貫通しているような感覚になりました。すると、相手が後ろに全く下れなくなり、三日月蹴りと肘当てがしっかりと相手に入るようになりました。正しい手刀をするだけで、相手を浮かし、動きを止めてしまう事を体験させて頂き、自分のやっている手刀が、正しい手刀とは全くの別物だということをを深く感じさせて頂きました。
その後も、師範から何度も正しい拳と手刀の締め方を拝見、体験させて頂きました。師範が「拳をパッと締める。手刀をパッと伸ばす。中途半端はない」と仰られたのを聞いて、自分の手の動きは全てが中途半端であったと気づかせて頂きました。宇城先生、師範の型は一つ一つの動きがピタッピタッと極まり、動きに「一」と「ゼロ」しかありません。そして型における手の動きについても、「一」と「ゼロ」のように、迷いのない「拳」と「手刀」のどちらかしかないのだと深く納得致しました。
合宿において、宇城先生が私たちのグループをご指導して下さった際も、正しい拳の締め、手刀の締めについてご教授下さいました。宇城先生の拳と手刀を拝見させて頂くと、力が全く入っていないのに、とてつもなく高い密度で締まっており、先生の拳が固い岩のように見えました。そして、宇城先生の手に触れさせて頂くと、面白いほど自分の体が浮いてしまい、全く何も出来ない状態になってしまいました。
宇城先生は「拳はパッと握る」と仰り、拳を締めるところを何度も見せて頂きました。宇城先生の握るところを拝見させて頂くと、五本の指が全く同時にジワーと優しく締まっていき、最後にガッとエネルギーが拳に集約されるように見えました。宇城先生と一緒にパッと拳を締めさせて頂くと、五本の指がピタッとくっつく様な感覚になり、今まで一度も感じたことがない程しっくりくる拳の握りが出来ました。その時、自分の今までの拳の握りは、五本の指がバラバラに動いていた事に気づきました。
その後で、宇城先生の拳の握りを思い出しながらパッと拳を握り、セイサンの型をやってみました。そうすると、拳の指がピタッとくっついて締まりながらも身体に力が入らず、今までの自分の型と比較し、一つ一つの動作がピタッと止まるようになりました。自主稽古では全く出来なかった、拳を締めながら身体の力を抜いて型をすることを初めて体験させて頂きました。
合宿後の自主稽古において、合宿で体験させて頂いた拳の締め、手刀の締めを再現できるように稽古を試みました。手刀は、何度試しても師範に教えて頂いた時のような、しっくりくる手刀を自分ですることができず、手刀の難しさを改めて感じました。
拳の締めを何度も試してみると、しっくりくる時としっくりこない時が両方ありました。そして、一番しっくりくる握りの時は、合宿において宇城先生が見せて下さった、五本の指が全く同時にジワーと優しくパッと締まる拳と同じように握ったときでした。言葉では色々と表現できますが、正しい拳の握り方をあえて一言で表現すれば、「宇城先生と同じように握る」としか表現できないと思いました。
また、自主稽古において、自分が一番しっくりくる拳の握りで五つの型をやると、いつも型の同じ箇所で拳の指がずれる瞬間がありました。指がずれて拳が締まらないということは、身体に力が入り、突こうとしたり、受けようとしたりする、部分体になっているからなのだと思いました。
合宿の前までは、身体の力を抜こうとするために拳が緩んだ状態で型をしていました。しかし、合宿の後では、拳が緩んだ瞬間こそが力が入り癖がでている状態であると、全く正反対の認識となりました。
今回の合宿を通し、武術において自分の理屈や言葉は必要なく、大切なのは、師と同じようにできるまでひたすら型を繰り返し稽古することであり、「師」と「型」の存在なしに武術の上達はあり得ないことを改めて感じさせて頂きました。
■K.I 教師 東京
合宿でのご指導感謝申し上げます。
真剣を突きつけられたときの細胞の反応と宇城先生が気を通したときの細胞の反応の速さは、同じようなのですが、微妙な違いがそこにあります。真剣の方は細胞が冷たくざわつく感じがしてから身体を守る動きになりますが、先生に気を通されたときは一瞬何かが身体を通り抜けた感じを受け、身体の力が抜け、立っていられなくなるようになるのでそう感じるのかもしれませんが、意識によるコントロールが効かない状態になっているというような無の感覚になります。あまりに速く、その瞬間を意識は捉えられていません。まさに細胞レベルのスピードと言うほかはありません。
この身体の細胞のスピードが地球の自公転速度や宇宙のスピードとつながっていることを知ったとき、自分という意識が消え、広く大きな世界に解放された喜びを感じました。宇宙と細胞は調和している。美しい表現です。宇城先生の実証により、今回はこのことをしっかりと身体で受け止められました。
では、細胞からこのエネルギーを引き出すには、どうしたらいいのか。なぜか分かりませんが、突然山岡鉄舟の浅利又七郎義明との手合わせのことが脳裏に浮かんできました。その時、呼吸を整え正面から逃げず写し取るしかないのではないか。そういう稽古をひたすら重ねるしかないのではないか、と思いました。
初段の方の指導を仰せつかりました。型から入り、組み手に生かせるようにと考えて、指導に入りました。始めて直ぐに感じましたのは、型にはまっていないところが多すぎる。勝手にやっている。という印象を受けました。私も全くはまっていないので、頭の理解より一緒に稽古する感じで、自分に言い聞かせていることや注意していることが、どれだけ身体に落とし込まれているか、検証しながら指導しました。総じて徹底した稽古の不足を感じました。
はめ込んで、癖をとる。我流を捨て去ることがどれだけできたか、今後の1人稽古の落とし込みにかかっています。学んだことを生かせるように謙虚に真剣に1人稽古を重ねて参ります。
引き続きご指導よろしくお願い申し上げます。
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