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東京実践塾 感想文 2022年10月~ 2022年12月



 

■ N.T 会社役員 千葉

宇城先生、いつもご指導誠にありがとうございます。また昨年夏より全日参加の稽古を再開していただき、改めて感謝申し上げます。


 ここ数年ではありますが、日常生活では仕事関係及び個人的な人間関係においてですが


、ふと気付いてみると多くの知り合いが出来ていました。先生のご指導により衝突や対立が無くなり、縁があって出会った人を受入れ、心開くと言う思いで接してきました。


 宇城空手を学ばせていただいて、知り合った人に自然にそのエネルギーが伝わっていけば自分自身もその人達も幸せの方向へ進んでいけるのではと思います。先生が仰られる本来人間(じんかん)は字の如く人と人の間を大切にして生かし生かされ自然に溶け込んだ宇宙の中の地球の一部と言う意味で全体(統一体)を意味していると思います。


 反対に人と言う個(部分体)は自然に溶け込めず、他者と衝突や対立をして孤立した人を意味していると思います。子供には対立と言う意識が無いので大人の力とは全く別次元の力で自然に溶け込めます。


 11月の審査では子供達の審査も見学させていただき、子供達の異次元の力をまざまざと見せつけられました。まず動きに柔らかさと伸びがあり、型や分解組手の際も唯々ひたすら行う。これが真剣と言う事なのかと見学しながら頷いている自分がいました。また一対多数の腕相撲では先生が子供達に「サンチンをしている時と同じ気持ちでやってみなさい」と仰られると子供達は頷きながら、いとも簡単に大人達に圧勝してしまいました。子供は先生の教えたことを直ぐに実践することが出来ます。これが映すと言う事だと思います。師を100パーセント信じることの大切さを改めて子供達から教えていただきました。


 私達大人は、筋力の強さや人を蹴落としてまでも上へあがらなければならないという勝利至上主義を重んじた教育を何十年も受けてきました。この洗脳から解き放たれるには、ひたすら信じやり続けるしか無いのだと思います。子供の頃は好きな事を見つけると時間も何もかも忘れひたすら没頭したことを思い出します。


 子供にとって学校とは本来ひたむきにやり続ける事の大切さを学び、またそこに導いてくれる師がいる所であるべきだと思います。我々大人にとっては遅過ぎるかもしれませんが、実践塾と言う場がまさしくその様な場であることに感謝し、今後も稽古に励んで参ります。


 


■ A.K 会社員 千葉


この3ヶ月は子供の持つ可能性について多くのことを学ばせて頂きました。

 とくに印象的だったのは、11月の子供の部の審査会と、その後の講習会です。審査会では、子供さんの木刀、基本、型から自然な美しさを感じました。癖がない、よく見せようとしないことの大切さを改めて感じました。


 審査会後の講習会では、一対複数の腕相撲による検証を見せて頂きました。子供がやると倒せるものが大人がやるとできません。しかし、その大人に子供が触れるだけでできるようになり、そのエネルギーは倒される側の人に触れると伝わってくるのを感じました。これは何人連なっても伝わるのを感じました。


 同様の検証はこれまでも様々な機会に見せて頂きましたが、何度見ても感動します。子供の持つ可能性とエネルギーを、理屈抜きで実感するからだと思います。先生は時折、冗談のように「大人は子供の邪魔をしないように」と仰っておられますが、私は子供によるこれらの検証を見るたびに、先生のこの言葉を思い出します。同時に、自分も子供の邪魔をする側の一人だということを改めて感じます。


 この3ヶ月の稽古での先生の講義は、子供のことをテーマにしたものがいつもよりも多かったように思います。先生がそのようなテーマでお話しされた理由は分かりませんが、最近の情勢と無関係ではないと思います。例えば、世界情勢ではウクライナや台湾の問題。日本社会では政治の劣化、希望のなさに起因する若い人の自殺の増加などです。


 困難な時代だと言えますが、今の子供はこれからこの困難な時代を生きていかなければなりません。先生のお話からは、「いま始めなければ間に合わない」という危機感を感じます。先生は空手の稽古を通じ、これからの困難な時代を自力で生きていく強さを教えて下さっているのだと思います。我々は、子供の邪魔をしない大人に、いま変わらなければならないのだと思います。


 12月の昇段審査会では、審査に臨む姿勢について学ばせて頂きました。審査会で先生や師範の評価が高かった受審者の方々は、技量はもちろんですが、審査を受けるに当たっての気概のようなものを感じました。上手く言えませんが、その日の審査の場に立つために努力した必死さのようなものを感じました。


 その努力は技量を上げるためのものか、或いは日常の中で稽古や審査を受ける時間を確保するためのものかは分かりませんが、審査に合格しようとか、審査で上手にやろうというものとは違う次元のものに思えました。そのような姿勢が審査の結果に繋がったのではないかと感じました。




 審査後の講習会では、拓治師範のお弟子さん(小学生)の稽古の感想文を紹介して頂きました。文章力も素晴らしいものでしたが、この子供さんの稽古への熱意に頭が下がるとともに、小学生が先生や師範の型を見て「美しい」と表現していることに驚きました。この子供さんは本当に美しさを感じ、美しいという言葉を使ったのだと思います。


 その後の祝賀会で拓治師範がこの子供さんの感想文についてお話しされ、宇城空手の宝物のような存在(言葉が違っているかもしれませんが)だと仰っていたことにも感動しました。


 この3ヶ月の稽古では、審査会と子供さんへの指導を通じ、多くのエネルギーを頂きました。宇城空手を学ぶ意味と喜びを新たに感じたように思います。どうもありがとうございました。


 

■ K.S 会社員 東京


宇城先生、先日は今年初めてのご指導をいただきありがとうございました。

 先生に仰っていただきました今年の指針、1言い訳をしない、2二進法ということを心して1年間稽古に励んで参ります。


 10月から12月の稽古で最も心に残っているのは「インスタント的な稽古では駄目だ」と先生に仰っていただいたことです。その言葉を聞いたときに自身の稽古のあまさ、仕事や日常のあまさを思い知りました。効率よく学ぼうとか、我欲に流され楽な方へ解釈する、理屈をならべて正当化する。すべて表層的であり中身がありません。仕事やスポーツでは通用しても武術を学ぶものとして、先生の弟子としては全く通用するものではありません。


 わかっているつもりになっていました。身体は嘘をつかない。いつも先生にお会いさせていただきご指導いただく度に痛感いたします。 その他にも今後の一人稽古においてたくさんの


言葉を先生からいただきました。


 「全体稽古では上手くならない」「型にはまっていくと楽しくなってくる、理解できてくる」「スポーツや勝ち負けは外向きだが、宇城空手はひたすら内向きである」ひとつ一つの先生の言葉が私の生涯の指針になると同時に、本気で人生かけてやり抜くという気概をもたなければならないと思いました。


 11月の合宿稽古にはなりますが、榎本師範にご指導いただいたことがその後の一人稽古に大きく影響をいただいています。先生と榎本師範の技に共通しているところを感じる。まだまだ真理には全く近づいていませんが、とことん突き詰めて一人稽古を続けていきたいと誓っています。


 12月懇親会の場での拓治師範のお話もとても心に残っています。小学校5年生のMさんが稽古に加わったことに対し、榎本師範にかけていただいた言葉をご教示いただきました。「Mさんは神様からの贈り物。もっと頑張りなさいと言われている」榎本師範の言葉、それを受けての拓治師範のお話に感動いたしました。


 当然のことではありますが、今のスポーツやビジネスの世界においてこれほどのレベルに達しながらもこれほど謙虚に学ぶ姿勢を持たれている方を見聞きしたことはありません。武道の世界においても同じことが言えるのではないかと感じています。そのような師範のお姿はさらに圧倒的なレベルでご指導いただいている宇城先生がいらっしゃってのことだと察しています。


 「宇城空手」という歴史上どこにもないレベルの稽古に参加しているというだけの満足ではなく、宇城空手の本質に絶対にたどり着くのだ、やりきるのだという覚悟をもって2023年は実践していくと強く決意した年末でした。


  本年はさらに一人革命に邁進し、動く年にしたいと思っております。

  引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。


 

■ H.O 自営業 東京


いつも厳しくまた温かい御指導頂きまして有難う御座います。


 最近強く思うのは、思いやり、いたわり、寄り添う、どの言葉も相手への真心からでてくる言葉だと思います。ですが、本来当たり前に持っているはずの心がまだまだ未熟であることを


思い知らされています。


 普段、自分の心の動きを観察していると、余裕のある日と余裕のない日で差がある事が分かります。エネルギーに満ち溢れている時は、思考の器が大きくなり、エネルギーがないときは気付かないうちに、思考の器が小さくなっている感じがあります。


 だからこそ、自分革命ではなく一人革命が必要なのだと思います。自分革命だと、自分だけよければいいという小さい思考に陥ってしまいがちです。自分だけでなく周りにも良い影響が与えられるような大きな思考で、変わっていくことが大事だと思います。


 実践塾を通じて、稽古場だけで稽古しているのが稽古ではない、ということがだんだん色濃く感じられるようになってきました。普段の言動、普段の行動1つ1つが自分の未来に繋がっています。自分の「今」をみれば、未来はどの方向へ行くのかが決まっています。だからこそこの一瞬、今日1日が大切です。


 ビールを相手に注ぐ時に、片手ではなく両手を使って添えて注ぐ、そんな些細な作法だけでも、身体は分かっていて、そこに真心が存在した動きなのかどうかを観察しているような気がしました。


 「心の発動が技となる」と先生がおっしゃるのは、日常生活24時間が修行で、日常生活をおろそかにして稽古場だけで、稽古をした気になっていては、いつまで経っても全く変われない事を教えてくださっていると思います。


 日常生活すべてが技に繋がり、心の鍛錬に繋がっています。そうはいっても頭でわかっているだけで実践にまでは落とし込めておりません。できるかできないかではなく、目指す事が大事とおっしゃられた先生の言葉が希望の光となっています。




 考えずにパッと席を譲る、自分から挨拶をする、困っている人に寄り添う、ゴミを拾う、人間として美しい行為は、相手を助けているようでいて、自分自身のエネルギーにスイッチを入れることにもなります。これらの行為が自分の命を活かし、相手も活かす事を目で見える形、そして、身体を通じて実感させて頂けることは本当に有難いです。


 真心を発動させる生き方をしていたら、常識ではありえない次元の事やとんでもない奇跡のような事ができるのを小さい時から体験させてもらった子供は、未来に希望を持って生きる事ができるはずです。これこそ義務教育の中で教えられたら、未来が確実に大きく変わるはずです。そのチャンスを私は自ら放棄していたという事に気付きました。それは先生が何度も何度も何度も教えてくださっているからです。


 そして何度も実体験させて頂くことで身体が自然に覚えて、人間にはものすごい可能性がある事を頭ではなく、全く疑いなく当たり前に信じられるようになってきました。


 これは私にとって大きな気づきです。あとは日常生活でいかに活かせるかどうか。真心からの行動ができるかどうか。周りを包み込めるようなエネルギーを少しでも増やして行けるかどうか。深化していけるかどうか。


 言い訳せずにひたすら稽古を重ねて、宇城先生、麻子師範、拓治師範、諸先輩方から御指導を頂き、軌道修正を重ねていきたいと思います。



 宇城先生とご縁を頂戴してから、確実に小さい心の自分から自分だけではなく未来のこと、周りの事も、まだまだ微々たるものですが考えられるようになってきた自分がいます。


 まだまだ未熟で不徳ですが、先生という光があることで目指す方向性が明確化され、日々希望を失なうことなく生きていく事ができています。


 

■ M.N 会社員 東京


宇城先生。


 いつも大変素晴らしい実践塾の稽古に参加させていただき誠にありがとうございます。


 昨年12月の審査会において、宇城先生は「みんなはダイヤモンドと石ころの見分けがついていない」と仰られました。そのお言葉を聞き、私たちが本物の武道、武術である宇城


空手と出会い、それを学ぶことのできる恵まれた環境にいながら、その価値に全く気付いていないことをご指摘いただいたのだと思いました。


 その価値に気付いていない何よりの証拠が、今までの人生、スポーツ、趣味の延長線上で稽古に取り組む私たちの姿勢にあり、その姿勢は型や組手を見れば一目瞭然で、とても隠すことはできないのだと思いました。審査会を終え、宇城先生のお言葉を聞き、私は宇城先生の居合いの試合の動画を思い出しました。


 宇城先生の居合いは、明らかに他の選手と型が違いました。宇城先生が居合いを始め2ヶ月で優勝され、当初から「宇城さんの型は、他の人と何かが違う」と多くの方から言われたというお話の通りだと思いました。私は居合道の未経験者で、これまで宇城先生の演武でしか居合いの型を見たことがありませんでした。


 数年前より、宇城先生から居合いの型をご教授いただく機会を得、居合いの動画を多く見るようになりましたが、宇城先生の居合いとこんなにも違うのかと、とても驚きました。その違いは、宇城先生の発する空気、雰囲気が他の方と全く違うため、見た瞬間に分かります。癖やしゃくりの無い、きれいな型をされている高段者の動画はあっても、宇城先生のような肚からくる重厚さや、内面から発する覇気のような空気を纏っている人の型はありませんでした。




 宇城先生の型、師範の型、子供の型を拝見させていただくと、言葉では表現できないものが空気から伝わってきます。反対に、私たちの型や検証を見ると、物体が動いているだけで、空気から伝わってくるものが何もありません。場や空気を変えられるものを身体から発せられなければ、武術のスタートラインには立てないことを改めて感じました。


 外面やテクニックでする型は、どんなに稽古をしても「きれいな型」までが限界であり、場や空気を変化させる「美しい型」は、外面やテクニックではなく、その人の「生き様」「真剣さ」「肚」「覚悟」などからしか生まれないのだと思いました。


 宇城先生のような生き様と姿勢がなければ一生武術を身に付けることは出来ないし、宇城先生の生き様と姿勢に少しでも近づくことができれば、その分だけ武術の本質に近づくことが出来るのだと思いました。


 宇城先生の居合いの動画の言葉にあった

「戦う相手は自分自身」

「待機時間は正座で過ごし、しびれに負けない自分をつくった。」

「抜けば命にかかわる刀に徹底して接してきた。」



「生と死の覚悟の上に日常があるからこそ、肚が据わる。」

「気を発するのは肚であり、気の変化を感じるのも肚である。」

という宇城先生の妥協のない生き様と、武術に対する姿勢が、全ての答えであると思いました。


 普段の生活における「生き様」や「姿勢」が、型や技の成長に直結するからこそ、武術の修行がそのまま人間力の向上に繋がるのだと思いました。反対に、武術を趣味の延長線上で漠然と稽古をし、「生き様」や「姿勢」に変化がなければ、型や技の成長もなく、何年学んでも人間的成長はないのだと思いました。


 先日、現代の科学技術におけるITの主たる発明はすでに終わっており、技術研究としては成熟期に入っているということを聞きました。人間の科学技術は、木造、石造から始まり、製鉄、蒸気、電気、原子、電子、ITまで到達し、今は素粒子の具体的な研究の時代に入っており、今後、素粒子の研究が進むと、これまでの時間、情報、物質などの概念が根底から覆り、近い将来、IT革命以上の変革が起こっていくとのことでした。


 しかし、いくら科学技術が発達しても、対となる人間力が劣化しては悲惨な未来が待っているだけだと思いました。これから量子技術の時代に入り、科学技術が更に発展していく中で、それを扱う人間力の向上は待ったなしの状況であると思いました。



 日本人の人間力をいえば、宇城先生の仰られるとおり、明治維新と敗戦の二度にわたり、日本人の人間力は大きく衰えてしまったと思います。明治維新から敗戦までが77年、敗戦から昨年までが同じく77年、この154年間で日本の経済や技術は大きく向上しましたが、文化と人間力は低下し続けてきたのだと思います。


 しかし、著しく日本文化が低下していても、まだ完全には消滅していないと思います。未だご存命されている戦前世代の方もおり、「道」にご掲載されている先生方のように、とてつもないエネルギーで行動されている日本人がたくさんおられます。歴史的資料や遺産も日本には未だ膨大に遺されています。日本文化を見直し、学びなおす方々が増えてきている今の時代は、過去の遺産と、希望のある未来が繋がるかどうかの重要な局面であるように感じます。


 しかし、いくら過去の文化や遺産を引き継ごうと努力しても、知識や情報だけでは片手落ちとなり、最終的には人間力の劣化は止められないように思います。そのように感じるのも、知識や頭の考えだけでは武術の技を身に付けられないことを宇城先生から学ばせていただいているからです。人間力の向上と、文化遺産の承継は、最終的には心と身体を通してでしか実現できない。それを学び、身に付けることができる方法を、私は宇城空手以外に知りません。宇城空手にはダイヤモンド以上の価値があるのだと改めて感じさせていただきました。



 宇城先生は「江戸時代までは武術が残っていたけれど、スマホなどの科学技術は無かった」「もし縄文人が現代にきたら、とんでもないことをする能力がある」と仰います。現代は日々暗いニュースが飛び交い、未だ希望の見えない世の中です。しかしその反面、過去の先人、偉人のように、とてつもない人間力とエネルギーを持った人たちが、高度な科学技術を使いこなす未来が本当に来るように最近感じてきました。


 技術の飛躍的向上とともに人間力も飛躍的に向上する時代がくるのではないか、宇城先生がこれまで仰られてきたことが現実化する時代が来るのではないかと思うようになってきました。


 明治維新からの154年間は長い年月でしたが、数千年、数万年の時間軸で捉えれば一瞬の時間であるようにも思います。宇城先生の仰る「デジタル式上達」の理論からすれば、154年間の落ち込みは、急上昇前の前兆であるようにも感じます。


 前回の稽古において宇城先生が仰られた「時代が落ち込んでいく今こそ、急成長のチャンス」というお言葉の通り、宇城先生にはそのような時代の流れがはっきり見えてらっしゃるのだと思いました。


 宇城空手を学んでいる、子供たちの型や検証、感想文を拝見させていただき、宇城先生が蒔かれた種が確実に芽を出し始めていることにとても希望を感じました。反対に、物質的価値観しかない人は、これまで以上に権力、お金、恐怖、暴力に支配されていくように思います。




 今号の「道」で拝読させていただいた安藤誠さんの白樺のお話も、時代の端境期に起こることを自然界が教えてくれているように感じました。「白樺は森のスターターで、明るいところでしか育たない。白樺の日陰でミズナラやカシワ系の木が育ち、白樺は徐々に枝を落とし、最後は根本から折れて、陰木に森を引き渡す」自然界に無駄なものは無く、すべてのものに役目がある。役目を終えたものは、次の世代へ命を繋いでいく。


 全ては循環し、終わりと始まりが同時に起こるという法則は、宇城空手と全く同じであると思いました。気で相手を投げたら、そこで終わりではない。投げられた人がさらに相手を投げられ、エネルギーがお互いにどんどん高まっていく。


 前回の稽古において教えていただいた虎口の残心も同じだと思いました。サンチンの型の最後の虎口で、気持ちを残してから結びの姿勢に戻る。残心があるからこそ、終わりの姿勢は次の始まりの姿勢でもあるのだと思いました。


 断片化し、全体性のない循環しないものは、いずれ自然界から淘汰される。現代の私たちがこれまでの断片化を手放し、自然界にあるような人間本来の全体性を取り戻さなければ、人類そのものが淘汰される可能性もあるのだと思いました。



 以前、仕事において家族法を勉強した際、「家族の相続権の根拠」の過去と現在の比較について、以下のような記載が本にありました。「現行法の相続権の根拠は精算である。家族は夫婦と子による有限家族であり、相続は有限家族的共同関係における対価と財産の精算である。一方、昔の相続権の根拠は継承である。死者と相続人との間には、今の世代と次の世代をつなぐ異時代的縦の共同関係がある。この縦の共同関係という概念は、無限に続く「家」を前提とし、「家」は構成員の生死を超越して継続する無限家族である」


 このような無限家族という考えは、宇城先生の仰る「四世代先までを考えて行動する」というお言葉と同じであり、全体性の思考であると思いました。反対に、現代人に多く見ら


れる、「今だけ良ければいい、自分だけ良ければいい」という個人主義的で短期的な考えは、まさに断片化の思考であると思いました。


 昔の日本人が、家族を個人や生死を超越した無限家族と捉えたのは、宇城先生や佐藤さんのように、自然界を観察する能力が極めて高かったからではないかと思いました。


 過去の文化遺産が希望のある未来まで繋がり、自分もその全体性の中の一部となれるよう、引き続き宇城空手の稽古に励んでまいりたいと思います。


 本年も宇城先生の益々のご活躍とご健勝を心よりお祈り申し上げます。



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