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東京実践塾 感想文 2023年1月~ 2023年3月

■ T.S 教師 埼玉


宇城憲治先生


 いつもご指導いただきありがとうございます。


 2月と3月に本校の生徒の見学、体験を受け入れてくださり、ありがとうございました。宇城先生の子ども達の力を引き出す力、凄いと思いました。


 禅の世界には「啐啄同時」という言葉があります。「啐(そつ)」とは、卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく音のことであり、「啄(たく)」とは、そんな卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく音のことです。


 最初、体験を拒んだ生徒が先生の技術や気を間近に触れることで、どんどん参加に前向きになっていきましたが、その機を逃さず力を発揮させる先生のご指導は、まさに「啐啄同時」と言えるものでした。度々、先生は教育は与えるのではなく、引き出すことだということを仰っていますが、そのことを体現してくださりました。


 真の教育者の姿を見ることができ、感動しました。ありがとうございました。


 年度末に人事考課の面談があり、管理職から次のようなことを言われました。「子ども、保護者、教職員と対立しない姿勢は周囲に大きな影響を与えてくれた」「自信をなくしていた若手教員に自信を持たせてくれたり、弱い立場にある非常勤講師に寄り添ってくれたりしてとても有難かった」先生のご指導のおかげで少しは人間としてまともなことができるようになってきたかと思える評価をいただきました。


 先生が伝えてくださる教えはどの世界にも応用の効く普遍的な真理です。

 今後も先生の教えを少しでも実践できるよう今後もやっていきたいと思います。

 ありがとうございました。


 

■ Y.W 会社員 千葉


2023になって、今年も宇城先生のもとで学ばせていただけることにとても嬉しく思います。


 空手を初めてちょうど1年。空手を通じて自分自身との対話、周囲との調和、心の鍛錬について考える事が増え、考え方や感じ方にも変化が出てきた実感があります。しかし、慣れてきたのもあるのか、自分に甘くなる時も多くあります。自分でもこれは良くないなと思っているのですが、なかなか行動に移せない。そんな自分が嫌になります。


 前回の実践塾で、黒帯の先輩の考えや心持ち、また宇城先生や榎本師範のお言葉から色々考えされました。組手や型以外にも、社会生活において、「対立」ではなく「調和」することにおいて、自分を主体とする主観的な考え方だと相手を受け入れる準備ができていないため必ず対立が起こる。今までの私は「自分が成長するため、自分の行動が相手の行動を変える、自分が調和させる」などといった「自分」を主体とした結果を意識していました。


 「自分が〇〇した結果××が起こる」は客観的な現象であって、その行動を起こす「自分」の気持ちが自分に向いているうちは調和は起こらず自己満足なだけ。本当の調和には、意識・気持ちを自分ではなく、相手や周囲に向けて「相手のために」「これから起こる周囲の現象」と意識する。「自分をゼロ化する⇨相手を受け入れ調和すら」になり、それが「先をとる」にもつながると実感しました。


 今までの私が、先生のお言葉の意味をいかに浅く捉えていたかと思い知ると共に、気づきのきっかけとなった黒帯の先輩方や師範、宇城先生への感謝の気持ちが強く込み上げてきました。


 稽古をすればするほど自身の気づきの幅を広げてくれる、心を豊かにしてくれる実践塾での学びはとてもありがたく、貴重なものだと再認識しました。


 まだまだ未熟ですがより一層鍛錬して、成長できるようにしたいと思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。


 

■ M.N 会社員 神奈川


宇城先生。


 いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただき誠にありがとうございます。


 前回の稽古において、宇城先生が「余計な動作をするから技が出来ない。技が出来ないということは、何か(無駄なことを)しているんだよ」と仰りました。そして「何もしない。何もしない」と仰りながら、宇城先生は考えられないほど高次元な技を次々に披露されていました。


 さらに先生は「(身体動作だけでなく)みんなは頭でいつも何か考えているから疲れるんだ。何も考えずに行動していれば全く疲れない」と仰りました。人は好きなことをしている時は何時間経っても疲れません。それは、没頭、過集中、無我の状態であるからだと思います。夢中に遊んでいる時の子供も同じです。


 宇城先生の仰った「何も考えない」というお言葉の意味は、当然のことながら、何も考えず勉強や創意工夫を怠るという意味などではなく、我や欲などの部分体的思考を捨てろ、という意味なのだと思いました。そして何も考えないとは「自転車に乗る時は頭で乗り方を考えない」や、「プロのピアニストが演奏する時は脳波が動いていない」という宇城先生のお話とも繋がることだと思いました。


 私が好きな言葉に、キュリー夫人の「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」という言葉があります。ラジウム精製法の特許を取得しなかった理由として答えたとされるこの言葉は、キュリー夫人にとっての幸せが、知的活動によって得られる富や名誉ではなく、知的活動に没頭すること自体である、という意味だと私は思いました。


 富や名誉の為の行動は、現代社会の主たる原理である「競争」の原理であり、競争社会には必ず勝者と敗者が生まれます。しかし、知的活動そのものが幸福であるという思考は、まさに、日本文化にある「道」と同じであると思いました。「競争」とは違い、「道」の世界は、ただひたすらに自分の志す道を探求する世界であり、そこには他者との比較や、人生における勝者と敗者は存在しないと思いました。


 「競争」の思考は、頭で考える「我」「欲」などの意識的な部分体の思考です。反対に、「道」の思考は、心から生まれる「無我」「調和融合」「共存共栄」などの無意識的な統一体の思考であると思いました。


 自分の空手を考えてみると、相手に技をかけたいという欲や、昇段したい、周りから認められたいという自己承認欲求などは「競争」の思考です。反対の「道」の思考は何かと考えてみると、最初に思い浮かんだのが「稽古が楽しい」と心から思えることでした。


 宇城先生がお話しになった「孫は受験直前の日でも、いつも通り空手の稽古に来た」というエピソードも、お孫様の中で稽古が完全に生活の一部となっており、稽古が好きだからこそのお話なのだと思いました。ゴミを拾うという行動ひとつとっても、意識的に行なうか、無意識的に行なうかで大きな違いがあると思いました。


 以前、私が早朝に散歩をしている際、右に曲がろうとしたところ、道の真っ直ぐ行ったところに空き缶が落ちていました。私は空き缶を拾い、近くのゴミ箱に捨て、また元の道に戻ろうとした時、後ろを歩いていた年配の女性から突然「えらい!」と声をかけていただきました。


 その時の私は本当に何も考えず行動していたので、最初何を言われているのかわかりませんでしたが、すぐに空き缶を拾ったことを言われたのだと気づきました。その時に、これが無意識ということなのかな、と思いました。ゴミを拾う時、今でも意識的に拾っている時と、無意識に拾っている時の両方がありますが、その時は無意識の行動でした。


 日常生活において、自分の行動が意識的か無意識的かなど通常であれば考えることなどありません。こうした日常の自分の行動を観察することが出来るのも、宇城先生から学ばせていただいているお陰なのだと感じます。


 自分の空手の型を考えると、未だに意識のかたまりのような型をしていると感じます。空手の技を無意識化するには、宇城先生のお言葉である「24時間稽古」のとおり、稽古と日常を区別せず、常に自然体で生活し、無意識化できるまでひたすら型を繰り返していくしかないのだと思いました。


 10年以上前、初めて宇城先生から「ゴミを拾いなさい」と言われた当時の自分は、常に頭の意識でゴミを拾っていました。さらに、ゴミを拾えば技が出来るようになるという邪な考えもあり、何もわかっていなかったと改めて思います。


 また、宇城先生のお話を聞いた時、私は会社などの組織で早朝にゴミ拾いなどをするのも同じ効果があるのだと思いました。しかし、宇城先生は「企業などが行なう社外清掃活動は違う」と仰られたのを覚えています。


 正直なところ、その時の自分は、個人的なゴミ拾いと社外清掃活動の何が違うのかが全くわかりませんでした。しかし、今では全く次元の違うお話を宇城先生がされていたのだと改めて感じます。宇城先生が仰られていたのは、単にゴミを拾うという行動や、社外清掃活動自体のことではなく、人から強制されたり、人に見られているからやるという偽善的な行動、心が伴わないハウツー的な行動は、武術の視点からすると意味が無いということなのだと思いました。


 大切なのは、ゴミを拾うという行動を通し「我」や「欲」という意識を捨て、自分を「ゼロ」にすることなのだと思いました。現代人の多くは、間違った教育やマスコミの力により、競争意識が骨の髄まで染み込んでいます。


 今の大人は、成長するにしたがい子供の頃の心を忘れてしまい、物事に心から没頭することが出来なくなり、周りからの強制や他者との比較という極めて次元の低い行動原理しか持てなくなっているのだと思います。


 一方、武術の修行は、頭での思考を戒め、日常の全ての瞬間において、心の発動による無意識の行動を可能にするのだと思いました。


 

■ T.K 自営業 神奈川


 宇城先生、今年も大変高度なそして深みのある稽古の開催をして頂きありがとうございます。


 年始の稽古では、「二進法」「言い訳をしない」という二つの目標を提示していただきました。その際の稽古も「切らさない」という内容が主でした。型の動きの中での「しゃくり」や呼吸の変換による「切っている」動きが身体の「ゼロ」から遠ざけており、日常における「二進法」「言い訳をしない」ということと通じる思いでした。先生の動きは柔らかく、スムーズで自然界における生物の動きを見るようです。何か日常から頭で変換することで不自然な動きを招いているように思いました。先生が常々「ひたすらに行う」と仰る言葉の深さを感じております。


 二月の稽古では、樹木と樹木を地下にて繋いでいる「菌糸」によって「共生」していることをお話しいただきました。その事実も感動的なものでしたが、その後に行われた検証は、机の下に人が四つん這いになり、かつその下に寝ている人に「気」を通すことによって、気を通された人が想うだけで、その場から離れた数人で机を持ち上げて質量が増しているグループをコントロールできるというものでした。樹木間の菌糸はフィルターが介在しても繋がることは出来ますが、板状のプラスチックを介在すると菌糸は伸びず、互いに分断され枯れてしまいます。それに対し「気」というエネルギーは机も人も通過しエネルギーを伝播できるということであり、「共創」「共学」「共育」というボードに板書された言葉は、人が可能とすることが出来るという事実を示す検証であり、とてつもないものを観たという感動する時間でもありました。


 そして、自分の中では昔よく先生が仰られていた「水平統合」という言葉を思い出しました。その時もその言葉の意味を充分に理解したつもりでしたが上記の検証を目の当たりにすることで、先生がなぜ実践塾をオープンにしてこられたか、稽古の場は先生が目指す社会の縮図をすでに作られているという事実を知ることで自分の理解の浅さを感じざるを得ず、とは言え自己嫌悪よりも遥かに早く深く感動が優先しており、こういったことが生きるエネルギーとなることをあらためて実感した時間でありました。


 翌月の稽古では、その先生が目指す社会の縮図の一端を見事に表現している支援学校の卒業生の「絵」がありました。ただただこちらが素直に「調和」を感じる絵でした。感じることは出来ても表現することは出来ません。一つには「学」と「術」の違いの証明にもあるように、まだまだ先生の「技」を頭で理解しており、「技術」を観れていないのです。


 稽古後は勝手に身体が型をすることを求め、楽しい時間でもあります。日常の時間に追われると、やらなければという思いに変換されてしまうことがしばしばあります。先生が「手の内」という本来開示しないことを教えて頂いても、自分とは何が違うのだろうと疑問を抱いているだけで、そこからの探求していくという本来持っていた楽しさを、「学」によって安易に答えを求めるという癖により失っていることを実感しています。


 先生が二本の木刀を「平行」にすることで場が調和しますが、自分達が行ってもそうはなりません。頭で平行にしているだけで、先生は身体で行うことで「平衡」が場に生じているように思いました。身体の「芯」という言葉で表現して下さいましたが、正にその「芯」を形成していくことが先生の型や実践塾の稽古にはあります。


 最近の稽古での検証を、アーカイブにて配信して頂きました。メリケンサックを腹に当てている人の腹を打つと当然痛みが返ってきます。しかし先生は痛みを伴わずかつ、列となっている全体を動かしてしまいます。また、対象としている人のみや、連なってはいても方向を変えている列のみを動かすことが出来ます。同じ腹を打つでも目標としているものや対象がメリケンサックという部分的なものではなく全体であり、全く異なったものとなっています。何か物の見方や受け取り方など全てに通じて違っていることを感じる思いです。いかに部分的な所しか見ておらず、部分的な理解に留まっているというこの三か月の稽古で思っていたことを表している映像でもありました。


 本当に頭で学んでいてはなにも変化せず、「写す」ということに変換しないと何も変わりません。先生がずっと表現されていた「写す」ということの大切さを今更ながら実感し、いかに深いことを学べているのかということに感嘆する思いです。大変学びの遅い塾生ではありますが、今後もご指導の程をよろしくお願い申し上げます。


 

■ Y.T 教師 愛知


宇城 憲治 先生


 このたびもご指導くださり、本当にありがとうございました。1月の稽古で先生がおっしゃった「言い訳をしない」「二進法でいく」という方針と「ただひたすらやるように」というお言葉が心に強く残り、それを胸に新年からの稽古に取り組んでいます。また、今年は超進化論のごとく超型、超型分解でいくとおっしゃったことも、なぜか不思議と心に強く残っており、今年こそは飛躍の年にするぞ、という気持ちで稽古に取り組んでいます。


 まず居合についてですが、3月の稽古で手の内を学んだことが強く印象に残っています。鞘から抜くときに右手小指をきゅっと締めるようにすると自然に抜けることや、抜いたらそのまま小指を締めて横に切ること、そして手の内を緩めて上段にもっていき、今度は左手小指をきゅっと締めながら切り下すことを教わりました。これまで木刀を振っても音も出ず剣先もぶれたりしていましたが、教わった通りにやるとビュンと音も出て、剣先もぶれずにぱっと決まり、感動しました。


 それで調子に乗りそうなところをすかさず先生が、「これはすぐにできるものではない。練って練っていくしかない」とおっしゃったことが心に強く突き刺さり、日々の一人稽古ではひたすら繰り返し稽古しています。また、昨年は手の内について気の通り道をあけてやわらかく握ることを何度も教わりましたが、その教えがあってこその今回のご指導であると感じました。


 また、この手の内ができると相手の手首を極めることも投げることもできることを実際に見せていただき、手の内がいかに大事かを学ばせていただきました。また、棒を両手でくるっと回して掴んでいる二人を倒すことも見せていただき、しかもエネルギーを十分に入れていただいた午後の稽古では、実際に自分の身体でそれができるという体験をさせていただきました。


 また2月の稽古では、刀を振りかぶったところでもう勝負がついていることや、どの角度から相手が切りかかってきても同じ守るの動作から相手を止めることを何度も見せていただき、その先生の姿に感動すると同時に、その際におっしゃった守りから入ると空間が変わり速くなる、というお言葉が心に強く残っています。


 また諸手突きをする際に左足を少し出すとスムーズにいくことや、振り向く際に柄頭をさっと相手に向けるとスムーズにいくことを教わりました。また三方斬りについては速くしようとしてちょこまかやると動作が小さくなること、また実戦の場合にはもっと小手先になることを注意した上で、堂々とやるように、とご指導くださいました。一人稽古に際しては以上のことを注意しながら行うよう心がけています。


 次に空手ですが、1月の稽古では多くのことを教わりました。まずサンチンに関しては、相手が左手首を握っている状態で右手で拳を引き、そのまま倒すことができるかを稽古しました。拳を引いても相手が何も変化せず、まったくできませんでした。


 その際に先生の胸や肩や上腕を触らせていただき、拳を引く際にどういう状態になっているのかを体験させていただきました。塾生が拳を引くとそのまま後ろに流れていきましたが、先生の場合は後ろに流れずにそのままの状態でした。そして拳を引くときにはすでに突く態勢になっており、そこから出される様々な突きは、相手が反応できないことを何度も見せていただきました。この後ろに流れないように、という課題をいただきましたので、一人稽古ではそこを注意して行うようにしています。


 次にナイファンチンに関しては、最初の手刀受けから肘当てまでを重点的に稽古しました。その際に先生が、みんなは横から見ており、身体も回っている、と指摘され、正面からちゃんと見て、真っすぐに入ることを何度も見せていただきました。見ているうちに先生と塾生で何かが違う、というのを感じましたが、その何かまではわからず、大きな課題をいただきました。また、その際に膝をくいっと前に曲げることが大事だと教わり、相手に両膝に手を置いてもらい、身体が後ろに崩れないかどうかも稽古しました。これも一人稽古の際に注意して行っています。


 またパッサイに関しては、手刀受けから投げの型分解を重点的にご指導いただきました。これは昨年11月の合宿と実践塾でも重点的にご指導いただきましたが、1月の稽古ではそれを踏まえてさらに詳しく教わりました。とくに先生が大滝先輩の横に立ち、左肩もちゃんと回して体全体で回るようにと何度も指導されたので、どこを直していけばよいのかを学ばせていただきました。


 また、体かわし突きに関しては、目をずらさないこと、ずっと正面に入った状態でいることを何度も実際に見せていただきました。塾生との違い、そしてそのときの先生の姿が強く印象に残っていますので、その姿を思い浮かべて稽古するように心がけています。また、その際に先生が、これができてくると相手の動きが見えてくるので、体かわしをしなくてもそのまま入って突きを入れることができる、とおっしゃり、実際にそれを何度も見せてくださいました。


 さらに2月の稽古でもパッサイを重点的に教わり、とくに最初の支え腕受けの分解を集中的に稽古しました。先生より、ちゃんと型どおりに腕受けをすること、そしてその際に腰をちゃんと切って相手に身体を向けることを教わりました。二人一組になって何度もやりましたが、腕受けも途中で止まりちゃんとできていないことや、腰も中途半端に残り、身体を相手にちゃんと向けていないことに気づかせていただきました。また、右肩を上げたりせずにそのままの状態を維持して投げるということも教わりましたが、これも全然できず、大きな課題をいただきました。


 続いて3月はナイファンチンの最初の手刀受けについて重点的にご指導をいただきました。手刀受けの際、平行になっていなければならないことを、棒や木刀も用いながら丁寧に教えていただきました。棒を2本平行に相手に向けることは見ていて理解できましたが、反りも芯もある木刀を平行にするというところは見ているだけではわからず、さらに二刀を別々の方向に構えてそれが平行だとおっしゃったことは、まったくわかりませんでした。また、実際に自分が手刀受けをやってみると、どの状態が平行なのかもわからず、大きな課題をいただきました。


 1月から3月の稽古では全体と部分のお話しが特に印象に残っており、部分の人間は見方にしても何にしてもすべてが部分である、というお話が心に突き刺さりました。また、学問、学ではなく、技術、術でなければならないというお話も、まさに自分の問題として心に深く刺さりました。部分体から統一体に変えていかなければ、本当にいつまでたっても部分のままで、人間のもつ潜在能力を発揮できないことを、またその統一体に変わっていくためにはひたすら先生の教えを実践して修行を重ねていくしかないことを、何度も何度も実感させられました。


 宇城先生、このたびも厳しくご指導くださいまして、本当にありがとうございました。引き続きご指導を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。


                                       

 


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