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2024年 大阪実践塾 春季合宿 レポート

2024年6月1~2日の二日間、 宇城憲治館長、榎本師範、宇城拓治師範そして大阪実践塾生をはじめ東京、長野、三重、福岡の各支部から総勢の50名の塾生が参加し、大阪実践塾春季合宿が滋賀県甲賀市で開催された。

 「世界中で今現在起こっている諸問題は、戦争を筆頭として対立・衝突と心無い嘘や偽りを原因としたものである。その根本原因には人間の能力の5%にも満たない知識・頭脳を優先して、95%を占める無意識・深層意識を無視する今の常識や社会にある。」宇城館長はこのように述べ、さらに「 今の常識や社会からの変革を起こすには、対立・衝突から調和・融合への転換、人間本来の可能性を引き出す必要がある。 心なしから心ありへ、寄り添う心、助け合う心を育む必要がある。これらを実現するための宇城空手である。」と話しを続けた。


 宇城館長の指導を踏まえ、塾生はなぜ宇城空手を学ぶのか、その意味を今一度噛みしめながら、それぞれ各班に分かれて、型、分解組手の稽古を行い、「身体のニュートラル化」と、「ゼロ化」を修得することを目指して稽古した。




各班に分かれ、型・分解稽古を行う



塾生の一人一人が、今後進むべき道が明確になり、人間の持つ可能性を実感したことで、大いなるエネルギーと変化する勇気を得た合宿となった。


 

集合写真
集合写真

 
感想文
 

■大阪 会社員 AK


宇城先生、大阪合宿での大変貴重な二日間の御指導をありがとうございます。

合宿の冒頭での講義では、ローマ時代の剣闘士の戦いと現代の格闘技との根本的な違いのお話がございました。


ローマ時代の剣闘士にとって負けは即刻死を意味し、現代の始め、終わり、判定という格闘技の世界とはあまりにも次元が違うというお話がございました。

剣闘士は厳しい戦いの環境の中で自由の身を求めて戦っていた。共に自由の身を求めて生と死の狭間で戦っている者同士でも、戦いに負けて死んでいったライバルには義理をも通し、剣闘士の間には見えない強い絆があったというお話もあり、同じ民衆の娯楽とはいえ、現代のスポーツ格闘技の世界とはあまりにも次元が違い過ぎると思いました。


「夜と霧」のお話では、戦時中のアウシュビッツ強制収容所の現代人には想像もできないほどの壮絶な極限状況の中でも、著者のフランクルは「愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ」という人間の根源である真実に気づいたということでした。


剣闘士は自由の身を求めての生と死の戦いの中でもライバルである仲間との絆を持ち、「夜と霧」のフランクルは壮絶な環境の中で人として到達できる最高のものが愛であることに気づいた。

「生きるか死ぬかの中から生まれた武術の実践哲学は世界最高の哲学である」という御言葉が先生の「宇城空手」の本に書かれておりますが、私達が先生に御指導いただいている世界は本来であれば触れることはおろか、近づくことすらできないのだと思います。

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それだけのことを先生から学ばせていただいている。しかも本や頭での知識ではなく身体での体験を通じてです。「オタク空手では困るんだ」というお言葉を先生からいただいております。剣闘士や「夜と霧」のお話から、自分がどのような心構えで宇城空手を学ぶのかということをもっと厳しく自分に問いかけて考えていかなければならないと思いました。

 

今回の大阪合宿では先生に気を映していただいた状態で、突っ込んでくる長机を持たせていただく体験をさせていただきました。片側は私一人で持ち、対面には何十人もの塾生の方が長机を持って突っ込んでくる状況でも、先生に気を映していただいてからの状態であれば、長机の端を持つ手を緩めて手のひらにフワッと乗せているだけの状態でも相手からは押されることもなく微動だにしませんでした。このような状態でも自分が先生のエネルギーに守られているという本当に物凄い体験をさせていただきました。


通常であれば片側に何十人もの人が持って突っ込んでくる長机を一人で止められるわけがありません。しかし先生に気を映していただくと自分の身体が止められるというメッセージを自分に発していることを感じました。先生が「持っている手をもっと緩めてみろ」と仰った時も自分が先生の気に包まれていることを感じ、自分には怖さも不安も何もありませんでした。手を緩めたら相手が突っ込んでくるという怖さも不安も全くなく、自然と机を持つ手を緩めることができました。本当に物凄い体験をさせていただきました。


また、先生の気に包まれている状態であっても、自分が長机を押し返そうとした途端に映していただいた気が切れてしまい長机が突っ込んでくる体験もさせていただき、我や欲、衝突意識の怖さを感じました。私が衝撃を受けたのは、先生の気に包まれている状態であれば相手が何十人であっても長机は突っ込んでくることはなく自分は守られる、しかし長机を押し返そうとなると「寄り添う」という心の発動がさらに必要になるということでした。


長机を持つ前に倒れている人に「大丈夫ですか?」と寄り添い、その後で机を持つと相手が何十人であろうと突っ込まれることもなく、さらには相手を押し返すこともできる。しかし、倒れている人を無視してしまうと机を止めることも押し返すこともできなくなる。

「心の発動が技となり形となる、技とは行動であり、形とはその人の人柄であり人格である」という「一人革命」に書かれている先生の御言葉を思い出しました。

先生に気を映していただき、自分の身体がエネルギーで満たされることでも自分は守られますが、そこからさらに上に行くためには寄り添うという心の発動が必要になる。

「止心を戒め、放心を説く」「心が開き身体が解放されると調和力が発揮される」という御言葉は先生が本に書かれている御言葉ですが、その実証をまさに体験させていただきました。

「先生に映していただいているエネルギーは相手に寄り添う心ありきで発動する」という、今後の自分の人生においてかけがえのない御指導をいただきました。


この寄り添う心の発動は仕事や日常の全てに活かすことができる、自分自身が変わるという実践の積み重ねでいくらでも人生は豊かになる、その一歩を踏み出す勇気と覚悟を持とうと思いました。

 

今回の合宿では東京のKさんの補佐として班の指導もさせていただき、指導の難しさを痛感いたしました。言葉で相手に伝えるのではなく、実証を通じて指導するには「できる、やってみせる」という確かな根拠を指導する側が持たなければならない。指導者は人の何倍も勉強しなければならない、宇城空手の本当の指導は一生かかってもできるかどうかが分からないくらいに難しいと先生からも御指導いただいており、その厳しさと難しさを感じました。


合宿ではパッサイ、クーサンクー、セイサンの型と分解を主に行い、皆様の型や分解を拝見し感じたことは、型も分解もそれぞれ皆さんが違う癖を持っており、何故同じ先生に学んでいるのに皆さんの癖がそれぞれでここまで違うのかということでした。これは自分都合の解釈をしているということであり、ここは自分も全く同じなのだと思いました。自分が感じたことは皆様にもお伝えしましたが、その全ては自分に対してのことでもありました。型で自分の癖がなくなれば自然と身体の内側から先生にいただいているエネルギーが映し出されるということは宇城空手を学ぶ子供達が示してくれており、自分達大人はまずは外形の癖にとことん向き合っていかねばならないのだと思いました。


外形の癖を直し、内形へと移行すると先生の本にも書かれております。

大きな癖は人から指摘してもらうことで気づくこともできますが、小さな癖は自分自らが気づき、自分で癖を直す稽古を考えて積み重ねる必要があり、そのためにも必要なのは謙虚さなのだと思いました。

謙虚さが自分になければ癖にも過ちにも気づけず、独りよがりでただ繰り返し稽古をするだけになってしまいます。


「無くて七癖」という言葉もあるように、癖がないということは本当に難しいのだと思いました。

自分がより一層謙虚になり、先生の心を映し、先生からいただくエネルギーから自分の癖と向き合い、型を一層深めていきます。

 

今回の大阪合宿の二日間では、本当にかけがえのない御指導をいただきました。

「寄り添う」ということの大切さは今までにも御指導いただいておりましたが、今回の合宿ではさらに深く心に残る御指導をいただきました。先生に示していただいた道をひたすらに歩んでいきます。

宇城先生、今度とも御指導御鞭撻をよろしくお願いいたします。


 

■大阪 会社役員 HN


 宇城憲治先生

この度は貴重な合宿に参加させていただきましてありがとうございました。

世界にない物(現象)を目の前で見て、実際に体験し、本当に特別でありがたい経験でした。どれほど自分の時間が止まり、目に見える物の中で生きているかを再認識した合宿となりました。


宇城先生の気により、5次元の時空の中にワープし、今までの常識が通用しない世界では、力の強い弱いは全く関係がないことを綱引きの検証等で何度も体験させていただきました。しかし、その異次元空間であっても、心が伴っていないと何も通用しませんでした。困っている人に寄り添う心、調和する心がなければすべてが止まってしまいます。宇城空手を学ぶということは心の学びであり、その心の学びとは決して瞑想やスピリチュアルではありません。自分がどのような思考の癖があり、偏ったものの見方をしているのかを、気づかせてくださる師匠がいて、初めて成長できるのだと思います。自分を否定されることは怖いことであり、誰もが耳をふさぎ、心を閉じたくなることです。だからこそ、自分をさらけ出すこと、心を開くことが大切であると、今やっと少しわかった気がします。素直であることが師へ近づく第一歩だと思います。

 

子供たちは、宇城先生や師範のご指導を何のフィルターも通さずに素直に心に写し、会得していく姿を見て感動しました。素直でありたいと思っていても無意識に対立する身体であることを、この度の合宿での分解組手で痛感しました。目の前に人が立つと、何度も姿勢が崩れ、前に突っ込んでしまいます。まっすぐ突くだけで良いと指導していただいているのに、当てに行ってしまう自分を客観的に見ることとなりました。頭では気づけない自分の内面を、空手をすることでまざまざと見えてくるようでした。


一方印象的だったことは、高校1年生のAさんが、テーブルの上に乗って、そのテーブルを何人かで持ち上げる検証では、A.Sさんが思った方向にテーブルが動き、回転したことでした。何もしなくてもすでに身体が統一体で、その身体から発する目に見えない波動は周囲に影響を与え、動き出すさまは、まさに一人革命でした。この身体の源は心にあることから、素直であること、無意識の調和力を兼ね備えていることを証明していたと思います。


また、サンチンをしてから、連なって立っている男性の列を軽く押すと、軽々と倒すことが出来ました。これらのことからも、同じ宇城空手を学び、同じ型を稽古しているつもりでいても、まったく自己流の解釈・稽古になっていることが分かります。正しく稽古をしていれば、身体が変化し、内面が変化し、周囲がおのずと変わるはずです。自分の間違いに気づき、ニュートラルできる型に近づいていきたいです。

 

柔らかく、力みのないサンチンは、周囲の緊張も和ませる、見ていても心地よい型でした。自分の型が、どれほど固く、不自然であるかに気づきました。しゃくりがあるのは稽古不足だとご指摘いただき、身体の滑らかな動きがないこと、重心が落ちておらず浮いた状態であること、脇や背中の絞りが足りずにすぐに緩んでしまう(気を抜いてしまう)ことを気づかせていただきました。

 

 私たち大人は100%Aさんのようにはなれないけれども、今の自分を変えなければ未来は変わらないと知りました。過去を見ている人は後悔があり、未来を見る人は不安があると教えていただきました。私は未来を見てとても心配することが多くあります。今という時間を正しく懸命に生きていれば未来は変わることをご指導いただきました。筋トレ、ラジオ体操、九九算など、学校教育で身に着けたことすべてが、身体と思考を弱らせたとしても、今の自分を変えることが出来るのは自分自身だと気づきました。


このような充実した学びの機会を与えていただきまして、本当にありがとうございました。この合宿で得られたエネルギーを日常生活に生かしていきます。

引き続きご指導のほどよろしくお願いいたします。


 

■東京 会社員 YT


 この度は大阪合宿に参加させていただきまして、誠にありがとうございました。

宇城先生の稽古に出させていただく度に、掘り下げる力のないことを再認識いたします。


 江戸時代はなぜあれほど長く平和を維持できたか。戦国時代で、為政者も庶民もボロボロになってどん底を見たのではないか、それは私には想像もできない状況ですが、家督争いで身内同士が殺し合うなど、人として生きるエネルギーを湧かせるには真逆の世界を、もう懲り懲りだと本当に心の底から思ったのではないかと、先生がホワイトボードに描いた年代図を見て思いました。同時に、今の世界の状況が本当に平和の時代を目指すようになるには、もっともっと堕ちなければならないのか…とも思ってしまいました。小野田さんも菅原文太さんも、そう見通しておられました。時代が進み、技術発展して不可能が可能になり便利になっても、人間のやることはさほど変わっていない。しかし、こうして宇城空手に学ぶ私たちは先生に諭され導かれて、堕ちる前に上を目指せと、その道を教えていただいています。


 Aさんが先生の気のもとで行なった「念じる」実践。調和融合を体現できれば、あるいは五次元時空に身を置けば、念ずれば通ず。平和な世界を目指すには、意思だけではなく身体がそうなっていなければならない。それがよく分かりました。

 

 班分けの稽古では榎本師範にご指導いただきました。まさしく一からやり直し、をご教示いただきました。「ゼロ化」がどういう状態かを触れさせていただいたり投げていただいたり、身体で感じる機会をたくさん得ました。本当に稀にですが、師範の助言や手引きでできた時に相手がふわぁ…と崩れていく感覚は、今の自分の中にある常識外。これが当たり前になることが「自転車に乗る」であるとはっきり分かりました。目指すところを身体で理解したことは大きいです。今までも何度も何度も経験させていただいていますが、今回ようやく……です。自分のレベルによって受け取れるものが違うと痛感しました。

 

 遅い歩みですが、新しく身体に入ることが少しでもある学びは楽しいです。これを原動力に、日々精進してまいりたいと思います。引き続き、ご指導のほどよろしくお願いいたします。


 

■福岡 会社員 SM


宇城先生

 

 この度の大阪実践塾合宿も稽古をつけて下さり、素晴らしい2日間をありがとうございました。おなかが痛くて困っている方に声をかけるのか、素通りするのか。先生が作って下さる5次元時空のなかでも、心が伴わなければ自由に動けないことを実証で示してくださり、寄り添う心、利他の心こそが人間の本質であることを感じました。言葉で奇麗なことを言っても調和の身体になっていなければ最後は裏切る。日常の中で、迷いや恐れが生じるとき、切羽詰まって余裕がなくなったときにこそより身体のレベルが問われるのだと思います。そこで逃げない。大切なものを守る。その逃げない身体をつくることを宇城空手で学ばせていただいています。


各班に分かれての稽古の際、宇城先生が来てくださり、支え腕受け、投げの分解で「何もしない」とはどういうことかを見せてくださいました。近くで先生の相手の腕に触れさせていただきましたが、先生に技をかけていただき投げられるときは力感を全く感じません。柔らかな空気全体に包まれ気づけば投げられている心地です。そして投げられて身体が喜びエネルギーにあふれます。一方で、いかに自分に「投げよう、相手に向かっていこう」とする欲、身体の癖があるかを感じました。ご指導の中で「身体のスピリチュアル」という表現をされていました。これはどういうことなのか。言葉の意味だけを表面的に受け取ることに意味はなく、先生はどういうことを意図してその言葉を選ばれ、それによって何を気づかせようとしてくださっているのか。「5X+2=12、X=2」の「=」、等価という病気、思い込みがあるとはどういうことなのかも自分のなかに残っています。Xと2は異なる。でもそれが「イコール」で結ばれている。以前、塾生の方の「等価交換」のお話を共有いただきました。


抽象化することは、物事の共通する部分を引き上げる一方で、それ以外の個別具体性を見ないように捨て去ってしまう。この見ないようにする中に、「自分が見たいものだけ見る」という横着さ、ご都合主義が存在するのだと思います。例えば「偏差値が高い=頭がいい」この誰かが勝手に作り上げた方程式の確からしさを検証することなく、無批判、無自覚に自分の中に取り入れてしまっている。この簡単な等価式は、一見便利で応用が利くかもしれませんが、現実の複雑さを受け入れるに堪えうるキャパシティを持ち合わせていません。だからこそ全体が見えなくなって思考が部分化し、さらに欲が強ければ強いほど自分流の解釈になる。つじつまが合わなくなってくるので余計に自分の見たいところしか見ないようになる。現実を直接的に受容できるのは、全体性を持った身体しかなく、自ら深く思考し吟味するというプロセスを飛ばして、安易な答えを求めるところに病の原因があるのではないかと思いました。だからこそ検証することが大切であり、現実の中で実際的に影響力を持ちうるのかどうかを自らで確認し、確かなことに気づいていく。その一歩一歩を自分で歩んでいかなくてはいけません。


「問いを持ち続ける、関心を持ち続ける」という追究する姿勢が全く今の自分に足りていないところだと思いました。合宿に向かう行きの新幹線の中で『宇城空手の真髄と継承』を改めて読み返しておりました。第二章の榎本師範の会見の中で次のような文章があり、改めて自分に迫ってきました。


「「問題は一人ひとりが「自分は違う」と自分を省いてしまうこと。身体での教えを学んでいるのに、その学びを身体で表せなければすべて嘘。思い込みの自分で生きている自分に気づくことです。それが最初の小さな一人革命になります。」


今まで身につけ、しがみついてきた悪い癖、思い込みを捨てること。先生がご指導下さることを表面で受け取るのではなく、その真意を心で受け取り、自らの身体に表現できるような自分になれるよう追究してまいります。いつもありがとうございます。


 

■長野 公務員 YU


 宇城先生、合宿でのご指導、ありがとうございました。

 冒頭の講話でいただいた、ローマ時代から現代にいたる衝突と暴力の歴史のご説明をとおして、わが国において戦国時代をへて江戸時代に生まれた「戦わずして勝つ」という究極の次元の武術がもたらした平和というものを支えた根源について改めて理解を深めることができました。世界中がまさに戦国期のような状況になろうとしている、または既になっている今こそ、この宇城空手がその平和に近づく唯一の役割を果たせるものであることは間違いないと確信を強くいたしました。


 一方で、その術技の根本は、ニュートラルな身体からうまれることを、机や帯を用いた実践を通して繰り返しお示しいただきました。そして、私たちの劣化した非ニュートラルな身体では、エネルギが全く無いため、「エネルギは低い方に流れてゆく」原理のとおり、まともにそれらの力を受けることになることが、明確に実体験できました。私は、以前からどうしても頭で考えるクセが強く、身体脳による瞬発力での行動や深い思考に切り替えられないままでおります。このことが先生のお示しいただく様々な稽古でのヒントを理解したり、気づけないことにつながっていることに今回は非常に良く気づかされました。「学ぶ気がないのではないか?」と何度も言われてきましたが、理解力が欠落していること自体、身体で考えることができていない、まさに証左であると腑に落ちました。すべてが身体で応答するような日常の稽古こそが徹底的に必要なことを強く感じております。


 各グループに分かれての稽古では、S先輩のアシスタントとして白帯の方々の指導をさせていただきましたが、初心者の方々への指導を通して多くの学びを頂く機会になったことを深く感謝いたします。一に眼、二に姿勢、三に瞬発力、のみを念頭に伝えたつもりではありますが、それは改めて己自身にそのことを語りかけることであり、またなかなか修正できない姿をみて、修正のヒントを見出すことが自らのクセなどに対する大きな気づきにつながることを感じました。


 懇親会では、グループ内でご一緒した福岡のMさんから漁師時代の厳しいご経験なども多数お聞きすることができ、交流と絆を深めることができたことを嬉しく思うとともに、そうしたご経験が空手の姿にも現れていることがとてもよく理解できました。日常のあり方の大切さを学ばせていただいたと思っております。

 

 引き続き、半歩でも前進してゆく所存でありますので、何卒ご指導をお願い申し上げます。


 

■三重 自営業 TY


合宿での稽古、ご指導ありがとうございました。貴重な合宿に参加させて頂き喜びを感じます。


スポーツ(格闘技)の起源ともいえる、コロシアムの剣闘士は支配階級からの特権により殺し合いを命じられ、死を覚悟し死ぬまで戦わされた。戦争は国の利権争いと称しながらリーダー個人の意志から生じ、民衆は巻き込まれる。スポーツはルールの下、生死を賭けるのでなく、娯楽であるが一部の利益を得るため、スポーツを増進しています。帯を引っ張る検証にて、ラジオ体操や腕立て伏せなど現在の対立構造のスポーツでは必ずメニューにあり、私は幼少の頃より普段の生活の中の動きを行っていました。検証によりそれは人間力を弱め、本来の力が出ないことが分かります。改めて洗脳されていた事実を実感しました。長きにわたりラジオ体操と同じ動きが身体に染みついており5パーセントの意識の世界から脱却していません。


 自転車に乗るのも、こけることから逃げずに、何度もこけた方が早く乗れる。コケることから逃げて安全のため補助輪を付けていては中々乗れない。このお言葉から今の私は出来ない方向に進んでいると思いました。子供はまだラジオ体操に侵されず素直に型を写し出来ていきます。更に人に寄り添う心の発動は身体に素直に入っていると思います。意識の世界から脱却できない私は常識にしがみつき飛び込む勇気がないと実感しました


 今回は宇城拓治師範のグループにて、型をご指導頂きました。改めて全て部分体になり、バラバラの動きをしている感でした。ラジオ体操の動きの型に気付かされ稽古の在り方に変化をもたらすきっかけとなりました。指摘していただいた事を直す。稽古の励みになりました。


 数々の実証にて最後に先生にエネルギーを受けたときは、相手との衝突はなく投げる、投げられたなどの意識はなく、今まで以上に包まれている感がありました。先生の繰り出すエネルギーは宇宙からのエネルギーを受けておられるようにおっしゃったと受けました。その通りだと思います。宇宙、自然のエネルギーは何からも属しなく何からも支配されず洗脳されていない。人間の身体も小宇宙と云われています。それが無意識下にある身体脳からくるエネルギーだと思います。先生にとっては普通であり、我々にとっては高次元の世界であり境界を作っています。常識が邪魔をしていた事を実感しました。我々が病気だということも分かります。武術の術がなくしては普通に戻れない、人間の持っている潜在能力を引き出す。元々備わっている人間力を取り戻す事になります。前々から云われていた事です。

 

我々の代には非常に難しく、子供に繋げていくため先生が実践塾、道塾、教師塾、U海外でのセミナーにと精力的な所業、調和融合の世界に導かれるご指導にいつも感動いたします。

 いつも稽古不足を感じながら、怠っています。今の自分に向き合い本日ご指導いただいた事を噛みしめ、稽古に励みます。

 

今後もご指導よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。


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