東京実践塾 感想文 2024年8月~ 2024年10月
■H.S 千葉 自営業
宇城先生
東京実践塾でのご指導いただき、ありがとうございました。
2024年8月から10月の感想文を書かせていただきます。
この3か月は、調和と対立の違いをもっと深く感じ取りたいと改めて強く感じた期間になりました。
8月は自分の中で特に印象的な実践塾でのご指導になり、とても大きな機会をいただきました。列を組んで相手に入る、調和するをしっかりやらせていただいたことで、もっと深く広く取り組みたいという気持ちが自分の中から沸き上がりました。なぜそうなったかは自分でもうまく言えません。しかし、数か月たった今でも残っています。
できたできない、崩せた崩せないではなく、相手と向き合うことで自分と向き合わなければならないと感じました。他責ではなく自分。それは実践塾での時間以外の時間がより重要と感じていました。
10月ではペットボトルを使っての実践を見せていただきましたが、本当に「今までの常識の外」です。研究者でもわからないとされていることですが、先生の実践実証の方が先にありました。これは自分が今までと一緒では、「今までの常識の外」に移れなければ感じ取ることはできません。
しかし、つながれることでみんなの奥深いところで同じ感覚を感じることができました。「量子」という単位では距離は関係なくみんなで一緒になれるのに、「私たち」という単位になると変化どことか感じることさえできません。
では「私たち」とはいったい何なのか? 鈍った感覚、頭でっかち、知識思い込み、無関心……。それらを置いてニュートラルへ進むにはいったい?
椅子を使っての実践では、大勢が倒れるのに椅子が一緒に動かないということが本当に驚きです。この椅子の姿がニュートラルとお聞きしましたが、椅子が特別なのではなく、椅子を介してエネルギーを発する先生の姿こそがニュートラルだと感じました。
経済、人心が荒れると人身売買が増えるとのお話もお聞きしましたが、先日映画『サウンド・オブ・フリーダム』を見た際にオープニングで監視カメラが撮った実際の誘拐現場の映像がいくつも流れましたが、大勢が見ている前でまるで親子のように近づき、優しく抱き上げそのままスクーターで去っていくなどの様子がいくつもありました。
「人気がないところで見つからないように連れていく」という「今までの常識、勝手な自分のイメージ」ではやられてしまいます。もし、自分がその場にいたときに何ができたでしょうか。いや、気づくことさえできないと怖くなりました。
自分ではまだ他者の痛み、苦しみ、危険信号を感じ取ることができていません。先生に通してつながらせていただいて初めて感じることができました。できたできないではなく、その前に自分が固く閉ざしてしまっていては、発するどころか受け取る、感じ取ることもできません。
私たちの身体は皆全員素晴らしいものを持っています。しかし、それを邪魔して閉ざしている自分を大きく開いて、さらに拓いていきたいです。
10月には3本移動組手の際に、腹が(姿勢が)曲がっていると指摘いただきましたが、その後腹をまっすぐに組手を続けると自然と目も違ってくるのを感じました。「一に姿勢、二に目」 今まで目を先につけていこういこうとしていましたが、動くとすぐに目がズレてしまいました。
しかし先に腹をしっかり相手に向けて付けて向き合うと、自然と目も相手に向かっていることに気づきました。うまく言えませんが、腹と目はつながっているのでは?という感覚を覚えました。言葉にすると「目が」「腹が」になってしまいますが、できたときにできている、言葉ではないということを感じました。そしてもっと深めて、この感覚も後日振り返った時に「いや違っていた」となるようにしていきたいです。
卑近な例で失礼しますが、先日ある人と立話をした際に姿勢を正し腹を相手に向け直すと、身体の感覚が変わりました。スッと落ち着き、すごい心地さを感じました。これを日々の中でもっともっと感じ取りたいと思います。
最後に個人的なお話で失礼いたします。ここ数か月、自分の家のすぐ前とすぐとなりの家が立て直し工事をしています。そのため、解体業者が連日大勢きていますが、全員おそらく中東系の外国人スタッフです。引率の日本人等はいません。外国人解体業者によるトラブルなどの一連のニュースを見ていたので、正直いいイメージを持っておらず、彼らに苦手意識がありました。
ですが、出かける時に彼らに歩み、挨拶をしたところ、彼らは明るく丁寧で職務にも勤勉ということがわかりました。時々飲み物を差し入れしましたが、むしろ工事が終わるのが名残惜しくもあります。日常の中でも一歩こちらから入っていくことで変わることを学ばせていただきました。
「外国人が仕事を奪う」「外国人がトラブルを起こす」は事実起こっていると思います。ですが、では日本人はどうなんだ?自分たちはどうなんだ?と考えるようになりました。彼らから見て、「やっぱり日本人は一味違う」という姿をみせていけることを目標にしていきます。
改めまして、ご指導いただきありがとうございました。
■H.S 沖縄 主婦
宇城先生、9月の御指導ありがとうございました。
長テーブルでの身体スキャンするかのような形での検証を見た時、その閃きには驚きました。さすが技術開発の道で磨かれてきた方でなければ、生まれてこないものです。
シンプルな形の中に心が発する見えない波動には重さがあることをあのような形で取り出して見せて頂き、エネルギー体として人間は存在していることがよくわかります。そのことをよくわかっているからこそのあの形ですね。
人は大きく分けると二つのタイプになります。他責、自責のいずれかです。死の恐怖が人の心の無意識領域にあり、そこからの脱却なくば身体まで染みついた負の意識の洗脳はなかなかとれないものであると思います。
それは空手以前の問題で、人間本来の身体を取り戻すことでもあると思います。人生全て、自分の中からの現れであり、良いも悪いも引き寄せている原子は自分の中にあることが自覚できるかどうかなのだと思うようになりました。
身体は見える世界と見えない世界の両方にまたがってあることを、子どもの頃からわかっていましたが、それを教えてくれる大人もなく、多くの宗教書、生き方を教え示したような啓発本は数多く読んできたように思います。生まれてくること、死んでいくこと、無から有へ、有から無へを人類は繰り返してきたわりに、人間は身体についてわかってないと強く思っておりました。
科学的発展が目まぐるしく、見える世界が全てであるかのような人間の意識では、霊性が進化せず心の目が開かずじまいです。全ての生命を生かし育むエネルギーの正体に近づくために、気のエネルギーとひとつになった日常を生きることが私の楽しみになりました。そのような意識や視点で、考え行動するように変化してこれたのは、気の空手であったからだと思います。
最後に塾生全員での検証についてです。前の人の帯を後ろからしっかり握り、全体が先頭の進む方向へ動きだしたかと思いきや、凄いスピードになり絶対に離さぬよう凌ぐのもやっとの状態で、足がついていかなかったと見えて、私の前の女子の方は手が離れてしまいました。以前に比べ集合エネルギーの蛇行とスピードが格段上がってる印象をもちました。いまだに不思議に思います。
地球エネルギーも波動を上げていると思われるような現象です。全員が一体となり蛇行に乗れるような足腰となるよう祈る気持ちです。絶えず気のエネルギーに満ちた型ができるような自分に向かって、精進したいと思います。
御指導ありがとうございました。
■T.S 埼玉 教師
宇城憲治先生
日頃の実践塾でのご指導に心より感謝申し上げます。
9月の実践塾で、先生は感謝しながらサンチンを行っていると仰っていました。私は先生から「感謝が足りない」とご指摘いただいてきてから、ずっと「感謝」について考えてきました。しかし、明確な答えを見つけることができませんでした。そこで、先生の真似をするようにしました。
何日か続けていると「有り難い」という感謝の念が湧いてくるのを感じるようになりました。今までの頭で思っていたのとは違う感じで、心から湧いてくるような感じです。
そう感じるようになると、色々な面で不平不満をもつことが減ってきました。愚痴を口にすることもありません。大きな変化ですが、感謝することの本当の意味はもっともっと深い所にあると思います。これからも感謝のサンチンを続けていきたいと思います。
10月の実践塾で体験させていただいたペットボトルを持っての検証では、貴重な気づきを得ることができました。先生がペットボトルを横に振ると、ペットボトルをもった塾生は横に揺れます。先生がペットボトルを縦に振ると、塾生は縦に揺れ動きます。ペットボトルを持った塾生に他の塾生が捕まると揺れはさらに大きくなり止まることができなくなります。
量子力学の理論を実践してくださる先生の偉大さを感じると共に、「自分が変われば相手も変わる」ということを理解することができました。
その後の分解組手の稽古では、「自分を守る」ことを徹底しました。すると以前より相手と衝突することが減ったように感じました。また、3本移動組手においても独りよがりになる面が薄まり、相手に合わせられるようになったと感じます。
U Kアカデミーにおいて先生がMさんの感想文を送ってくださったことがあります。その中で「稽古不足」であることを反省されていました。その謙虚な姿勢に私自身、大いに反省させられました。
私は稽古の絶対量が足りません。しかし、大幅に空手の稽古時間を増やすことは困難です。ではどうするか。宇城空手は日常生活も稽古です。先生からいただいた宝物のような教えを24時間稽古することで空手にも活かしていきたいと思います。
ありがとうございました。
■Y.W 千葉 会社員
宇城先生
今回もとても貴重な経験をさせていただきありがとうございました。
稽古の中で特に印象に残っているのが「自責と他責」についてです。私の年代(20代)は特に、現代の日本を支える青壮年では、自責思考はほとんどなく他責思考の人間が多く感じます。それは今回の選挙での得票数や政治に対する関心からもそのように感じられます。
その原因はどこにあるかというと、やはり日本全体のエネルギーの低下だと思います。それは学校教育だけでなく会社上司や子育てにおいても、上の立場に立つ人間の怠惰によって他責思考になることで組織全体のエネルギー低下に繋がっていると思います。
インターネットですぐ情報が手に入り、欲しいものがすぐ手に入る時代。文明の発展はとても素晴らしいことなのに、人間はそれに甘えて怠惰してしまっている。本来文明が発展することで時間が確保され、更なる発展のために研究や自己研鑽をするものですが、特に私と同世代の年齢層においてはその時間を無駄に過ごしているように感じます。
趣味や、やりたいことがない、すぐに手に入るからこそ欲しいものがない。与えられたことを時間通りに行い、家に帰ってもやることがないからだらだらと残業をする。そういった明るい未来を想像し、それに向かって前向きに努力するエネルギーがなくなってしまってるように感じます。
自責思考は、問題は自分にあり、それを打開しなければその問題解決はできない。だからこそ自分を見つめ直して打開するために考える、実行する。些細な問題から目標を設定し、それを踏まえて思考していることで、自分にとって何が足りないかが明確になり実行させるための行動力になるり、小さなエネルギーを繰り返すことてやがて大きなエネルギーになる。そして自分に余裕が生まれることでエネルギーを他者や周囲に与えることで発展していくのだと思います。
ただ現代社会において自責思考がマイナスに働いていることのほうが多く感じます。それは他責思考だらけの社会で競争を基本とさせる教育や、低賃金重課税の影響で共働き世帯が多くなってしまう事で、子供のうちから孤独感や、負けるから戦いたくないなどの「不安と怯え」が影響しているからだと思います。そんな影響の結果として、やる気のない新入社員が増えることや、自殺率の増加、挙げ句の果てには強盗なども起こっております。
そんな悪い方向の自責を変えるには、他者がその人を認め寄り添うことが必要です。検証の中の一つであるお腹が痛い人に寄り添う、声をかけるが一つの例だと思います。私達ひとりひとりがそういった行動、思考を持つことでまた周囲に広がる。自分が変われば周りが変わる。そんな正のエネルギーの循環が現代社会において必要だと思いました。
まだまだ私自身も、つい無意識のうちに他責思考の言動をしてしまいます。日頃から他責になる自分を戒め、ネガティブな自責ではなくポジティブな自責思考で周囲へエネルギーを与えられるよう鍛錬が必要だと思います。また自分の成長を支えてくれる上司や家族、宇城先生に感謝し日々の稽古をしていきたいと思います。
今年も残り少ないですが、残りの稽古や合宿、級の部の審査、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
■Y.I 神奈川 自営業
宇城先生
いつもご指導頂き、誠に有難うございます。
ご指導のエネルギーが益々増大し、一般的には信じ難いものに加速度的に進んでいると感じます。地球規模の気候変動、対立の激化に即しての事と思われ、学ぶ者の姿勢が問われる岐路だと感じています。
8月の稽古で、「さらけ出す」とおっしゃった事が残り続けました。いつどこにいても、一人でも誰といても、宇宙に溶け込むように自分をさらけ出している状態を心掛けたいと思いました。そうすると、駅や雑踏を歩いている時も爽快さがあり、自分の周囲と目線の先の遠くが同時に捉えられていると感じますし、乗り物の中では、周りの子供や人に気持ちを寄せたりする感覚が持てるようになりました。「大丈夫ですか」と人に寄り添うのは、自分に閉じこもらず、さらけ出した行動なのだなと繋がりました。
20年近く前、実践塾に入れていただいた頃「殻に閉じ籠るな。自分を開いていきなさい。」と繰り返しご指導いただいた事が、やっと少しだけ感じられたのかと思いました。
9月の稽古の後で実感するようになったのは、目には見えなくても、空間には量子的なものが満ち満ちていると言う事です。空間には、さまざまなエネルギーの濃淡がある。電波だったり、人の想念だったり、自分の感情だったり、です。そう思うだけでも感じられる事が圧倒的に多くなり、目に見えるものだけの認識では、創造性の本質には絶対に到達できないと改めて思いました。
長い間常識であった古典的ニュートンカ学、枠組みありきで、その中に法則性を見出す機械論的唯物的世界観は終わり、量子力学へと考え方も教育も全部変わっていく。変わらなければ未来に向かえないと思いました。
美術教育の入り口も、未だニュートンの時代、ルネサンス期のアカデミックな方法で、目に見える形の描き方を学びますが、これは稽古で形を覚えて、出来たと思うようなものに過ぎないと言えます。比べてルネサンスと同時代の室町の画家達は、剣を振り、座禅をし、宇宙に溶け込む量子的な身体感覚を持って描いたと言えるのではないか。身体の呼吸が伴った、外界と繋がった身体なら、枠組みなど要らないのだろう。と日本の文化の高さを思いました。
東京美術学校(現東京芸大)を岡倉天心と共に創立したフェノロサの言葉を引用させていただきます。
「日本の志向、日本の特性、東洋の神秘に対する日本の深い洞察力、今後一千年間全世界に君臨すべき新しいタイプの近代的文明人を日本の土地に誕生せしめようとすることが、あるいは天の秘密会議における神意であるかもしれない。」(アーネスト・フェノ ロサ、1892)
自分は先週、人体を描く講座で指導をしたのですが、これまで、この人は形はうまく取れるから先に進める、この人は高齢だし、反応が鈍いし、形の観察と理解は難しいだろうというように、自分が長年「伸びしろ」のあるなしの判断で、人を見ていたことに気付かされ、大いに反省する事がありました。
通常、骨格など、まず形を教えるのですが、ふと思いついてモデルさんに、静止ではなく、ゆっくり動き続けてほしいと伝えました。すると、普段、形の上手い人は、途端に萎縮して焦る様子が見られました。
「形はどうでもいいから、ゆっくり息を吐いて、伸び伸びと腕を動かしてみてください」(人体の課題で形はどうでもいいと言った自分に驚きました)すると、形の取れなかった人、私が伸びしろは少ないと判定していた人が、伸びやかな線をどんどん引いて、一人芝居の役者でもあるモデルさんの集中に同機するように、その場の3〜4人が生きた植物のような線画を描き、場の空気が変わりました。
ですが、上達の意欲がある若い新人さんは、自分が描いた人の形を整えることに頑なで、自分の枠の外には出ることは無く、絵が縮んだままだったのです。昔の自分を思い出しました。
上手くはならないだろうと私が思っていた人は、空気に溶け込むような感覚に繋がり、その場に別人のように爽快な様子の人が増えて、私自身の呼吸も深くなり、疲れが吹き飛んでいることに驚きました。「伸びしろ」というような考え方は、思考優位、上手い下手の対立構造的な価値観だったのだと思いました。「伸びしろ」ではなく、「身体の広がりしろ」の感覚を絵画の現場で伝えたい。絵を描くことで元気になる人が増える未来があるに違いない。と意欲が湧きました。
10月の稽古では、先生が振られたペットボトルの水の渦が伝わって、連なった人達の大きな渦となり、幾つものグループで同時に同じ現象が起きて、エネルギーが爆発的に増大しました。量子力学では、離れた粒子同士が瞬時に影響を及ぼし合うことが証明されていますが、先生が「地球の裏側でも同時に起こせる」とおっしゃった時、地球規模の災害や、戦争を思いました。
自分自身の稽古は、形すらままならないレベルですが、稽古は自分なりにも、その度に気付く事があり、最近子供の頃から前に 出ていて一生治らないと思っていた首が少し伸びてきました。60を過ぎても良く変化出来ることは希望です。
自分を開いて、融合し、姿勢を直し癖を直し、進みたいと思います。生きるか死ぬかの危機に自分がどう動けるか、全く覚悟出来ていませんが、逃げずに最善を尽くせる者でありたいです。
今後共ご指導を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
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